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開拓記念碑調査事業

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北海道・東北地方

北海道

「開拓之碑」 北海道恵庭市惠南開拓

「開拓之碑」

北海道恵庭市惠南開拓

北海道中部の恵庭市(えにわし)は札幌市と新千歳空港のほぼ中間に位置し、人口は約7万人。交通の便が良いことから、いくつもの工業団地がある。農畜産業も主要産業であり、稲作や酪農のほか、野菜・花き栽培などが盛んに行われている。恵庭の開拓は明治初期から始まり、戦後、緊急開拓事業も実施された(当時は恵庭村)。

1870(明治3)年の高知藩の移住によって開拓が始まり、86年、山口県からの団体移民の入植で本格化した。その後も、同県や石川県、富山県などからの集団移住が続いた。

現在、同市内には「山口県人恵庭開拓記念碑」「富山県人開拓之碑」など数基の開拓記念碑が建っている。

同市恵(え)南(なみ)の寺田牧場(酪農)の敷地内にあるのは戦後開拓の記念碑で、碑銘は「開拓之碑」。両隣には、「馬頭観世音」「牛頭大王」の碑が建っている(写真)。

 1945(昭和20)年、陸軍の演習場があった旧・恵庭村桜森地区が解放された。約100戸が入植したが、ほどなく、進駐軍より退去通告があり、48年末までに、全員が立ち退いた。一部の開拓者が恵南に移り住んだ。

「開拓之碑」は、恵南入植30周年を記念して、7911月に建立された。裏面の碑文には、「昭和二十三年十二月緊急開拓者として原始の森と不毛のこの地に入植せるを似て恵南開拓は始まる 以来同志克く協力相和し幾多の苦難を克服し粒々辛苦風雪正に三十年 瘠薄の火山灰土化して沃野となり営々として業に勤しむ 茲に開基三十年を迎うるにあたり往時を回顧し同志相諮り碑を建て似て記念とす」と刻まれている。

さらに碑文の下段には、13名の開拓者の氏名が記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年6月 北海道・恵南

惠南開拓 「開拓之碑」

 

①調査日  2019年9月10

②所在  恵庭市恵南 寺田牧場敷地内

③地区の沿革 昭和20年、陸軍の演習場があった旧・恵庭村桜森地区が解放された。約100戸が入植したが、ほどなく、進駐軍より退去通告があり、23年末までに、全員が立ち退いた。一部の開拓者が23年12月に恵南に入植した。

④設置年月日  昭和5411

⑤設置者  13名の個人名が記載

⑥碑名  開拓之碑

⑦碑文(表面)  開拓之碑

⑧碑文(裏面)  國破れて山河あり 窮乏と荒廃の國土の中から祖國再建の使命を擔い昭和二十三年十二月緊急開拓者として原始の森と不毛のこの地に入植せるを似て恵南開拓は始まる以来同志克く協力相和し幾多の苦難を克服し粒々辛苦風雪正に三十年瘠薄の火山灰土化して沃野となり営々として業に勤しむ茲に開基三十年を迎うるにあたり往時回顧 同志相諮り碑を建て似て記念とする。

⑨現在の状況  酪農家の敷地内にあり農家が管理している。

北海道

北海道足寄町・足寄開拓

「寒門有硬骨」と「牛魂碑」
北海道十勝地区の足寄郡足寄町は、日本の町村で最も面積が広い。人口は約6800人。山麓特有の気象現象と内陸性気候の影響で寒暖の差が大きく、冬は冷え込みが厳しい。
明治期の開拓により、農地が拓かれた。戦後の開拓事業による入植者に残されていたのは、丘陵地だった。入植者は45(昭和20)年11月の復員軍人を皮切りに、翌年の山形庄内開拓団、長野開拓団など70年までに534戸を数えた。48年、足寄町開拓農協が創立された。

入植地は強酸性の火山灰土壌であり、炭カルを運ぶ道路も整備されておらず、作物栽培は困難を極めた。当初は、自給用の作物と販売用の豆中心の畑作だった。だが、標高300~500㍍の高い高冷地で、53年から56年にかけて冷害が度重なった。定着しつつあった豆作は転換を余儀なくされた。

いつ襲われるか分からない冷害に対処するには、草地を基本作目とする経営、酪農への転換だった。離農者が多く出たが、次第に酪農の専業・大型化が進んだ。乳用雄子牛の哺育、肥育も行われた。現在、酪農や肉用牛経営など畜産が盛んな地域となっている。
開拓農協は05年9月、足寄町農協と合併。開拓農協施設内の2基の記念碑は同年6月、末広地区共同牧場内に移設された。記念碑「寒門有硬骨」は78年、「牛魂碑」は83年の建立。「寒門有硬骨」は組合創立30周年を記念したもので、「寒門に硬骨あり」とは「厳しい環境の中からこそ、人材が生まれる」といったことを意味している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

1月:北海道・足寄

入植5周年祝辞
本日入植五周年の記念日を朴して團員各位の精神的寄りどころたる神社を建立せられここにかくも荘厳な式を上げる事の出来ました事は團員各位の喜びは勿論の事送出の母体として終始苦楽を共にして未だ我々としてもこれ程の喜びはありません 顧みれば軍馬山に入植以来あらゆる辛酸を克服して営々とここ迄築き上げて来た諸兄等の歩み来った道が姿がまざまざと眼の前に浮んで来ます霜柱の深いどろどろの道曲りくねった延々の山道塩の無かった食生活本営に言語に絶する苦労もものともせず大陸の同志の弔合戦だと歯を喰ひしばって現在の成果を得ました 本隊入植の時多くの家族と幼ない子等と共にこの深い山に入った時ここに新しい生き生きとした生命が芽を吹くのだと感じました 月日がたつのは早いものでもう五ツの年を経團建設も○約軌道に乗り自家発電施設を始め諸設備の完備と共にいよいよ明るい理想の村が出来つつある事を見感慨無量であり胸にこみ上げるものを感じます ここに新たに郷土の神々を迎えいよいよ團結を固くして理想の村造りを完成されん事をお願ひしてお喜びの言葉にかえるしだいであります

昭和二十七年四月十七日 庄内開拓事業協同組合 鈴木壯助


足寄開拓 牛魂碑 寒門有硬骨碑
位 置 足寄郡足寄町末広地区
設置者 内閣総理大臣 中曽根康弘 農林水産大臣 中川一郎
設置日 平成17年6月
碑文表 牛魂碑 寒門有硬骨

碑文
昭和五十三年九月、足寄町開拓農業協同組合創立三十周年記念として開拓記念碑「寒門有硬骨」、昭和五十八年九月に「牛魂碑」を、足寄町西町五丁目の開拓農協施設内に建立する。
五十七年間続いた開拓農協の歴史に幕を閉じることになり、平成十七年六月、両碑を末広地区共同牧場内に移設する。

記念碑の現在の立地状況
足寄町末広地区共同牧場内

青森県

「和開開拓二十周年記念碑」 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町

和開開拓二十周年記念碑

青森県西津軽郡鰺ヶ沢町

 青森県の西部に位置する西津軽郡鰺ヶ(あじが)沢町(さわまち)は南北に細長く、北は日本海に面し、南は白神山地で秋田県に接している。町の北東部の岩木山麓一帯には、明治時代、陸軍の大規模な「山田野演習場」が設けられた。終戦後、その跡地を中心に緊急開拓地として払い下げられ、開拓者が入植した。

広大な開拓地に7つの開拓農協が設立された(「戦後の開拓年表」青森県、1965年発刊)。45(昭和20)年から64年にかけて、復員軍人や引揚者、地元の二男・三男等300名余りが入植。だが、農耕地としては厳しい土地条件だった。入植者は試行錯誤を重ね、土地条件に合った作物を採り入れることにより、経営の安定化を図った。

現在、同町は5つの地区に分かれている。開拓地は鳴沢地区と中村地区にあり、5地区の中では田や畑、リンゴなどの果樹園の面積が広い。

鳴沢地区建石町の鳴沢小学校山田野分校跡地に、02年に設置された記念碑がある。碑文から同分校の閉校記念碑と分かる。入植者が多かった山田野開拓地内に立地し、碑銘は「拓魂」となっている。

中村地区長平町の「和開(わかい)婦人ホーム」の敷地には、二基の記念碑が並んで建っている(写真)。左は、70年に建立されたもので、碑銘は「和開開拓二十周年記念碑 婦人ホーム落成記念」。下部の銘板には、まず、「和開開拓農業協同組合」とあり、続いて、組合長以下17名の氏名が記されている。右は02年に建立されたもので、碑銘は「昭和二十七年四月入植 開拓五十周年記念碑」。裏面には、町内会長以下12名の氏名が刻まれている。

なお、婦人ホームは60年度から75年度にかけて、入植者の保健衛生、乳幼児の保育、営農及び生活改善等の勉強の場として、国や県の補助金により、各地に設けられた。和開婦人ホームは現在、地区内の集会所となっている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年12月 青森・鰺ヶ沢

「和開開拓二十周年記念碑」

 

①調査日  2019年7月24

②所在  西津軽郡鯵ヶ沢町長平町

③地区の沿革 昭和27年に山田野演習場跡地が解放され、17名が入植した。

④設置年月日  (ア)昭和45年6月25日 (イ)平成1411月吉日

⑤設置者  (ア)和開開拓農業協同組合 (イ)町内会

⑥碑名  (ア)和開開拓二十周年記念碑 (イ)開拓五十周年記念碑

⑦碑文(表面)  (ア)和開開拓二十周年記念碑 婦人ホーム落成記念 

(イ)昭和二十七年四月入植 開拓五十周年記念碑  平成十四年十一月吉日

⑧碑文(裏面)  (ア)和開開拓農業協同組合 組合長以下17個人名 昭和四十五年六月廿五日

                (イ)町内会長以下17個人名

⑨現在の状況  地区内の集会所(婦人ホーム)敷地内に立地し管理されている。

青森県

「永遠之繁栄」 青森県平川市・善光寺平開拓

「永遠之繁栄」

青森県平川市・善光寺平開拓

青森県の中南部に位置し、秋田県と接する平川市は、2006年に南津軽郡の平賀町・尾上町・碇ヶ関村の3町村が合併して誕生した。旧・平賀町の善光寺(ぜんこうじ)平(たい)、大木(おおぼく)平(たい)などは戦後開拓地で、高原野菜の栽培が盛んに行われている。

戦後、農村の二・三男対策として、各地で分村入植が行われた。善光寺平には52(昭和27)年、同郡畑岡村(現・北津軽郡板柳町)から37戸が入植した。

八甲田山連峰の南西部に位置する標高約700㍍の高冷地で、大木や竹が生い茂る原野だった。立木の伐採、伐根などの作業は人力で行った。豪雪地帯で積雪期間が長く、営農はなかなか進まなかった。製炭や山仕事などで生計を維持した期間が長かった。入植者のうち24戸は、将来への不安や生活苦のため、次々と離農し、山を去った

善光寺平をはじめ、八甲田山周辺の高冷開拓地の営農不振が問題となっていた時、農林事務所等が中心となり、野菜の栽培が大々的に取り入れられた。善光寺平では、特に漬物用ダイコンに重点を置いた。やがて、大型トラクターの導入により農作業の省力化が進んだ。牧草畑と肉用牛を加味し、地力の減退を防ぐ堆肥づくりも行った。野菜栽培が本格的となり、規模拡大にも取り組み、営農は次第に安定した状態になっていった。

現在、善光寺平を中心に、八甲田山麓の高冷開拓地は高原野菜の一大産地となった。ダイコン、ニンジン、キャベツなどが栽培されている。

開拓地の入り口に生えている巨木のそばに、善光寺平開拓35周年記念碑がある。87年に入植者一同が建立したもので、碑銘は「永遠之繁栄」。

碑文には「希望と勇気をもて汗に汗し耐えに耐えて 基を築きし人々の徳が尊くしのばる その業績 その姿を永く後世に伝えんと朝夕ご恩を胸に記念碑を建立す」とあり、末尾に「祖を念(おも)い 祖の徳を修め 残りし我ら一徳一心善光寺平繁栄に鞭打つを誓う」と決意が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年8月 青森・善光寺平

善光寺平開拓 「永遠之繁栄」

 

①調査日  2019年7月25

②所在  平川市切明字津根川森

③地区の沿革  農村の二・三男対策として、十和田八甲田山麓の大木や竹が生い茂る高冷地の原野に昭和2737戸が入植した。立木の伐採、伐根などの作業は人力で行ったが、豪雪地帯で積雪期間が長く、営農はなかなか進まなかった。

④設置年月日  昭和6277

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  永遠之繁栄 平賀町長 奈良辰雄   善光寺平開拓三十五周年記念碑

⑧碑文(裏面)  天道を歩まんと約してここ善光寺平に入植の第一歩を刻みしは昭和二十七年 以来幾多の苦難を乗り越えて今ここに三十五周年を迎う 感新たなるを覚ゆ 希望と勇気をもって汗に汗し耐えに耐えて基を築きし人々の徳が尊くしのばる その業績 その姿を永く幾世に伝えんと朝夕ご恩を胸に記念碑を建立す

時は戦後の大混乱期 旧畑岡村分村として三十七戸の入植 開拓に困難辛苦は覚悟なれども世は意のままならず離村者多数 現在十三戸の定着となる

豊沃の地となりしいま 高冷地野菜の生産を柱に生活の安定をみるは感慨深し祖を念い 祖の徳を修め 残りし我ら一德一心善光寺平繁栄に鞭打つを誓う

    昭和六十二年七月七日       善光寺平記念碑建立実行委員会

⑨現在の状況  開拓地の入り口に立地し管理されている。

岩手県

「拓地安民」 岩手県一戸町・奥中山開拓

「拓地安民」

岩手県一戸町・奥中山開拓

 

奥中山開拓は、岩手県北部の一戸町の奥中山高原スキー場がある西岳の東麓に位置する。

 標高は327~793㍍で、地層は全域火山灰土に覆われ、さらに地下水は低くて農業には適さない土地とされてきた。農耕期間は5月から10月の約半年しかなく、霜害も多い。

 戦中は陸軍の軍馬補充部のあったところで、戦後に国の緊急開拓事業でこの軍馬補充部跡地約4000㌶と、周辺国有林が解放されることとなった。

 1946(昭和21)年3月に入植したのは、農業の経験もない勤め人、旧軍人、中国や樺太などからの引き上げ者、地元の2、3男ら567戸。

 農業に適さない土地で、農業をやったことがない人々が作物を作るのは容易ではなく、生活は困窮を極めた。開墾補助金などもあったが、本来設備投資する金が生活費に回ることも多々あった。

 この当時の主な換金作物は、麻、ハッカ、コンニャクなどであったが、これらもうまくいかず、雑穀中心から酪農へ早く転換しようと努力していった。

こうした中、48年に奥中山開拓農業協同組合が発足し、49年に既存農協と合併して奥中山開拓畜産農業協同組合となった(現在は新岩手農業協同組合)。

農協は開拓振興計画に基づいて無計画な入植を再検討し、開拓道路の整備や土地配分の是正を59年から実施した。このころから草地造成、乳牛や、大型機械の導入などを行って酪農への道が開けてきた。

酪農の技術向上には、地域単位で研修し合う酪農同志会の活動が大きかった。酪農家、同志会、農協が一体となって乳質改善等に取り組み、成果を上げてきた。

また、68年に農協に野菜部会が発足し、レタス、夏ダイコン、アスパラガスなど高冷地野菜の名産地となっていった。

76年9月1日に開拓30周年記念式典が奥中山中学校で開催され「拓地安民」の碑(写真)の除幕式も行われた。

現在、奥中山の酪農家は26戸で、飼養頭数3600頭(内成牛が2400頭)。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年2月 岩手・奥中山

奥中山開拓 「拓地安民」

 

①調査日  2016年9月1日

②所在  二戸郡一戸町

③地区の沿革 標高327793米で、地層は全域火山灰土に覆われ、さらに地下水は低くて農業には適さない土地とされてきた軍馬補充部跡地約4千㌶と、周辺国有林が解放され、農業の経験もない勤め人、旧軍人、中国や樺太などからの引き上げ者、地元の2、3男ら567戸が昭和21年3月に入植。

 国有地 四千町歩が未墾地として開放され、600戸が入植した。

④設置年月日  昭和51年9月

⑤設置者  不明

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  拓地安眠

⑧碑文(裏面)  昭和二十年夏八月日本はついに敗戦の日を迎えた 生産交通通信等の手段は殆ど馬有に帰し都市は文字通り焼土と化した 国民は茫然自失した しかし生き残った者は家族と共に今日を生きぬき明日に永らえねばならなかった自からと家族の為にその食を得ることが誰にとっても緊急の課題となった  時の政府もこの事態に対応し緊急開拓事業をもって最高施策の一つとした 当奥中山開拓地はこのとき三本木軍馬補充部奥中山支部に属する国有林八千町歩のうち四千町歩が未墾地として開放されたものである これに対し純入植者凡そ三三〇戸を中心に地元増反者を合わせて六〇〇戸がその配分を受け昭和二十年内に早くも開墾の鍬が下ろされた  開墾も開拓も言うは一口であるけれども実態は一瞬一瞬の苦斗の積み重ねであった土地は荊棘茂る荒野であり人々は鍬一本でこれに挑まねばならなかったブルトーザーなど考えることも出来ない時代だった  荒野は人間の汗を吸わねば耕地とはならず 開拓者たちはこの苦難を自らの運命の如く受諾し克くこれに耐えて一つ一つを乗り越えた かくして過ぎた年月は三十年その間止むなき事情で離脱し去った者約二〇数戸踏み止った者達は今にして漸く生活の安定を得るに至った現状必ずしも満足すべきものではないが過ぎた苦難の三〇年を記念し次の新しい飛躍への決意の為にここに之の碑を建立するものである        

 平成五十一年九月

⑨現在の状況 地区内で管理されている。

宮城県

慰霊塔「招魂碑」と「満州開拓団殉難の碑」

慰霊塔「招魂碑」と「満州開拓団殉難の碑」

宮城県色麻町・王城寺原開拓地

宮城県中部の王城寺原開拓地は、旧陸軍の演習場跡地に立地する。加美郡色麻(しかま)町と黒川郡大衡(おおひら)村にまたがっている。

45年8月の終戦で米軍に接収された約4000㌶の旧陸軍施設は、同年10月、宮城県に譲渡された。農林省(当時)の緊急開拓地区の指定を受け、開拓事業が開始された。旧満州(現中国東北部)からの引揚者、復員者、戦災者、地元増反者ら400戸余りが入植した。入植者はまず、移住している旧兵舎の周りの空き地を開墾して、自家用野菜を作り始めた。

米軍は47年、演習場として使用するために再接収し、開拓地南側の移住者に立ち退きを命令。202戸の開拓者が立ち退きの止むなきに至った。

その後、一部の地区(420㌶)が返還され、53年には850㌶の解除が決定した。開拓者一丸となっての強い要求、熱意が実を結んだ。演習場は58年、米軍の完全撤退により、陸上自衛隊の「王城寺原演習場」となった。

開拓地は火山灰土の強酸性土壌だった。不利な条件を乗り越え、冷害など幾多の試練に耐え、開拓に精進した。営農形態は畑作から酪農、水田作へと変化していった。

色麻町役場前に二つの石碑が並んでいる(写真㊤)。右側の塔は、色麻村(当時)出身の戦没者を慰霊するため、67年に建立されたもので、碑銘は「招魂碑」。碑文には、「嗚呼 諸士の烈々な献身殉国の大節は永く青史を照らし後世を安んぜん 題して招魂碑 此の文字に刻まれた吾が郷土の英魂三百余柱の遺芳永く後世に伝えんとす」と記されている。

左側及び写真㊦の碑は94年に建立されたもので、碑銘は「満州開拓団殉難の碑」。45年8月、旧ソ連の参戦や終戦の混乱で、色麻村の開拓団でも多数の人が犠牲になった。碑文には、「かつて渡満の同志が発起人となり、町民各位或いは有志の方々の御芳志を仰ぎ、肉親の方々に思いを馳せながら、親の、子の心情に思いを馳せながら、殉難者の御冥福を祈るとともに、世界平和のために二度と繰り返すことのないようにとの願いを込め、ここに鎮魂慰霊の碑を建立す」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年10月 宮城・王城寺原

王城寺原開拓地 慰霊塔「招魂碑」と「満州開拓団殉難の碑」

 

①調査日  2017年7月24

②所在  加美郡色麻町

③地区の沿革  王城寺原の開拓は、明治30年頃三井財閥によって行われたが明治41年旧日本軍に買収され、以来終戦に至る40年の間、旧日本陸軍の屈指の演習場として利用されてきた。

  終戦後、米軍第187空挺隊より宮城県に譲渡になり、農林省の緊急開 拓地区の指定を受けて、開拓事業が実施された。引揚者、復員者、戦災者、地元増反者等625戸が入植したが、昭和22年宮城軍政府覚書により接収されて、202戸の強制立退きを命ぜられた。このとき、工作制限を受けて残留した者に更に昭和25年全面接収の命令が出され、前後7年に亘り接収に反対して開拓地解放の運動を展開した。辛うじて一部の接収解除をうけて、200余戸の順入植者と200戸あまりの増反者とが自作する土地を確保することができた。

   窮乏に耐え、冷害、災害等困難を乗り越えて、開拓28年を経過し広漠たる原野は今や、美田と化し、乳牛の群れるのを見るに至った。

④設置年月日  平成6年11

⑤設置者  殉難碑建設委員会

⑥碑名  殉難碑

⑦碑文(表面)  満州開拓団殉難の碑 色麻町長 鈴木省治 書

第二次世界大戦争から五十年過ぎた。今日も船形の山の端をかすめ白い雲が行き、清らに流るる花川、保野川の漣に銀の光をこぎし月に行く。

故郷色麻の自然は今も昔のままを彩る。村人は不屈の闘志と勤勉によって戦後の疲弊窮乏を脱し、行き交う町民の眼に光をあて、活気溢れ、豊かさを謳歌する町とはなった。

   然し、第二次世界大戦に南溟の狐島に、渡満の地に、大陸の地に、はた又寒風吹きすさぶ北海の果てに護国の鬼と化した英霊諸氏もさること心から、子々孫々に語り継ぐことが、今一つ有るを忘れてはならない。

   今を遡ること六十有余年当時の日本は、五族共和、王道楽土建設の御 旗を掲げ、昭和七年、満州事変終わるや、満州国を建国、武装移民、満州開拓義勇軍などの日本人による開拓を始めた。その時代の日本の農村は、凶作、恐慌等により窮乏に喘ぐ時でもあった。昭和十一年には国の計画が策定され、以降二十年で一〇〇万戸、五〇〇万人開拓者を送るというものであった。このため、国策移入として全国から三十万乃至、四十万人の人々が満州に渡った。当時の色麻村も国策に沿い、分村計画を樹立、数多くの人々を満州に送り、色麻郷を営むまでに至った。幾多の困難を克服、生産も軌道に乗り、第二の故郷として反映を信じたところ、戦局日々悪化するや、若人は根刮き、軍に招集せられ開拓団は婦女子、老人のみとなった。

   昭和二十年八月九日、ソ連参戦。ソ連雪崩の如く国境を越えて乱入。夢と希望に満ちた新天地は悪夢の生き地獄と化した。殺戮、略奪、暴行、陵辱、酸鼻を極め、或いは何百キロの逃避行の中で寒さと飢えと病に倒れし者も限りなしと聞く、また、敵に知られるを恐れ、頑是なき幼な児の口を覆う母親。その心情哀れなり。その心情を察するに余り在り。ただただ涙、滂沱として筆舌に盡し難し。赤き夕陽の満州の大地に骨を拾う者もなく、五十年の歳月は流れ去った。

さりながら、国策、分村計画に沿い、満州に渡り切創に会いし人々はまさに戦争の殉難者である。此の人々を忘却の彼方に流し去るにしのびず。

戦後五十年に期し、かつて渡満の同志が発起人となり町民各位或いは有志の方々の御芳志を仰ぎ、肉親の方々に思いを馳せながら、親の、子の心情に思いを馳せながら、殉難者の御冥福を祈るとともに、世界平和のために二度と繰り返すことのないようにとの願いを込め、ここに鎮魂慰霊の碑を建立す。

   平成六年八月十五日  色麻町長 鈴木省治 撰文

     殉難碑 建設委員会 委員長 鈴木賢蔵 委 員 早坂彦二

               委 員 小関英司 会 計 髙橋甚作

        施 工 色麻町農業協同組合 株式会社斉藤石材

        平成六年十一月 建立

⑧碑文(裏面)  無し

⑨現在の状況  役場前で管理されている。

宮城県

宮城県蔵王町・北原尾開拓

「開魂」 宮城県蔵王町・北原尾開拓~南洋パラオを忘れない
宮城県南部の刈田郡蔵王町北原尾(きたはらお)地区は、戦後に南洋群島からの引揚者が開拓した。現在、県内でも有数の酪農地帯となっている。 戦前、満州(現・中国東北部)と同様、南洋群島には多数の日本人が移住した。戦後、引き揚げ先のひとつとして、蔵王町が選定された。北海道・東北出身者のための入植地として準備され、パラオ(現・パラオ共和国)、ロタ、テニアンの各島から、1946(昭和21)年3月に第1陣、5月に第2陣が入植。最終的に32戸が定着した。
入植当時、地区名はなく、パラオからの入植者が多かったことから、「北のパラオ」という意味を込めて、北原尾と名付けられた。入植地は標高450㍍の雪深い蔵王山麓の国有林で、大木や雑木が密生し、道路は幅2㍍程度の1本だけだった。
入植者は厳しい自然条件の中、笹小屋を建て、手作業で開墾を進めた。48年に北原尾開拓農協を設立。焼き畑で大豆、小麦、バレイショなどを栽培したが、収量は少なかった。熱帯の気候に慣れた入植者にとって、高冷地の農業は苦難の連続だった。
53~54年、2年にわたる冷害で農作物の収穫はほとんどなかった。一方、牧草だけは生育したので、経営の主体を酪農へ転換する契機となった。67年の開拓パイロット事業の承認により、牧草地の造成を行い、乳牛の頭数が増えていった。
集落の入り口に開拓記念碑が建っている。開拓農協(72年解散)を引き継いだ北原尾農事組合が11年に建立したもので、碑銘は「開魂」。碑文には「昭和二十一年春、パラオ、ロタ、テニアンから入植する。南洋パラオを忘れないようにこの地を『北原尾』と命名する」と刻まれている。隣に、77年に北原尾支部一同が建立した慰霊碑「牛魂の碑」がある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年8月宮城県蔵王町・北原尾開拓

蔵王町 北原尾開拓

開 魂
(碑文)
髙橋道太郎先生の尽力により
昭和二十一年春、パラオ、
ロタ、テニワンから入植する
南洋パラオを忘れないように
この地を「北原尾」と命名する。

開拓記念碑
平成二十三年十月一日 建立

宮城県

宮城県大崎市鳴子・上原開拓

拓魂碑と畜魂碑
宮城県の北西部、上原(うわはら)開拓地は、大崎市の(旧)鳴子町・岩出町、栗原市の(旧)一白町・花山村の4地区にまたがっている。同開拓地は、軍馬を育成する「陸軍軍馬補充部」の跡地が中心だった。1946(昭和21)~48年、緊急開拓事業により外地引揚者102戸が入植し、地元増反者や元・軍馬補充部従業員を加え、計229戸の大開拓地となった。
奥羽山系に連なる標高約300㍍の高台地。原野、山林を鍬による手起こしで開墾した。火山灰土壌で酸性吸収度高く、土地生産性が低い土質だった。高冷開拓地のため、度重なる苦難があった。ようやく開墾が進み、食糧増産に励んだが、53~57年の冷害で大きく挫折した。
それを機に、主穀経営から酪農経営への転換を目標とした。国の振興対策などで次第に発展。現在、県を代表する酪農専業地域となっている。
上原開拓農協(75年解散)の事務所は鳴子町にあった。開拓記念碑が、入植35周年の83(昭和58)年に建立された。碑銘は「拓碑」で、碑文は「雲が流れる 緑が広がる 三十五年の労苦を経て 今上原は逞しく生きる」となっている。すぐ近くに、畜魂碑も建立されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

11月:宮城・鳴子

上原開拓
開拓記念碑 拓魂
宮城県知事 山本壮一郎 書
昭和五十八年三月吉日建之

(碑文)
雲が流れる
緑が広がる
三十五年の労苦を経て
今上原は逞しく生きる
文 鳴子町長 寺坂二男

秋田

秋田県由利本荘市鳥海町

開拓記念碑と「愛牛の碑」
秋田県由利本荘市鳥海町
秋田県南西部に位置する由利本荘市は、日本海に面し、東南に鳥海山北部山麓まで広がっている。05年、本庄市と由利郡7町が合併し、発足。県の10分の1を占める広大な面積となった。農業は、基幹産業の稲作のほか、畜産が営まれている。
戦後、計21地区の開拓地に海外引揚者や地元二・三男らが入植し、田畑を開墾した。最も内陸で、山形県に接する鳥海町(ちょうかいまち)(旧・由利郡鳥海村)では、鳥海山麓の豪雪地帯3地区で開拓が行われた。47(昭和22)年、川内上原に8戸、翌年、鶯(うぐいす)川に11戸と提(さげ)鍋(なべ)に4戸が入植した。
このうち、川内上原(川内村開拓地)は、標高260の波状形の台地であった。土壌は鳥海山火山泥流による埴土で、下層は重泥で強酸性だった。営農は、入植当初の食糧難から雑穀・イモ類中心の栽培がしばらく続いた。54年に地区内道路が整備され、一部開田化を開始。さらに57年、村が酪農振興地域に指定され、乳牛の導入が活発化し、水田・酪農主体の営農に移行した。
同地区の採草地を背に、2基の石碑が並んで建っている。左側は「開拓記念碑」で、旧・川内村開拓農協が76年に建立したもの(写真)。裏面に開拓者8戸の夫婦氏名・年齢などが刻まれている。
右側は「愛牛の碑」で、鳥海村酪農協会が77年に建立したもの。裏面には開拓の歩みと、一般の生産者も含め酪農家9戸の氏名が刻まれている。碑文の末尾には、「幾多の乳牛の犠牲の上に定着を見たのであり 酪農二十周年を記念し物故の魂を慰めると共に 本日を期して鳥海村酪農記念日として永遠に之を伝誦するものである」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年7月秋田県由利本荘市鳥海町

川内上原
地区概要
所在地 由利本荘市鳥海町
組合名 旧川内村開拓農業協同組合
建立年月日 昭和五十一年五月
入植年度 昭和二十二年度
入植戸数 八戸
地区面積 56.7ha
耕地面積 29.1ha(水田8.7ha、畑20.2ha、樹園地0.2ha)

開拓記念碑 揮毫者 後藤竹清(本荘市) 

裏面刻
昭和二十二年五月入植
川内村開拓農業協同組合設立
昭和四十八年八月組合解散
昭和五十一年五月建之

竹清書

開拓者8名の夫婦氏名

秋田県

秋田県能代市・東雲原開拓

アクセス

拓魂碑
戦後開拓地は、農耕の対象外だった山間僻地や軍用跡地が多かった。
秋田県能代市の東雲原(しののめはら)開拓地は元陸軍飛行場跡地で、1946(昭和21)年、引揚者・戦災者等144戸が入植した。内訳は、東雲開拓110戸、拓友開拓34戸。
不毛の原野で開拓者は、開墾に懸命の努力を続けた。開拓当初は畑作だったが、経営が不安定なため、水田化を目指した。入植から約25年でようやく、畑地が水田となった。複合で酪農、肉用牛などの畜産や野菜を組み入れた経営も増えた。
現在、水稲を中心とした営農が展開され、規模の大きさから、県内では重要な食糧基地となっている。
開拓記念碑は入植25周年記念事業として、71年に東雲・拓友入植者一同が建立したもので、碑銘は「拓魂碑」。50周年記念事業では、隣接して「平和祈念碑」が建立された。
拓魂碑の碑文には、「開拓者は徒手(としゅ)空拳(くうけん)で過酷な労働に直面し、暗い流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で志半ばにして物故した者、或いは離農のやむなきに至った者等、その数決して尠しとしない」とあり、大変な苦労がうかがい知れる。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

7月:秋田・東雲原

東雲拓友開拓
碑文 拓魂碑 揮毫 秋田県知事 小畑 勇二郎
開拓は戦後荒廃と困苦の中に、祖国再建の国策として実施され、此の国家的要請に応じて東雲原に入植した開拓者は一四五戸であった。其の多くは海外引揚者、被戦災者、復員者等でその土地も僻遠不毛の地で、営農と生活の基盤は皆無に等しい状態であった。
由来開拓は農業の創造的事業でありその推進には適切な施策を要する事は言は俟たないが、戦後必然的に発足した開拓にはその余裕がなく、開拓者は徒手空拳で過酷な労働に直面し、暗い流汗と苦渋に満ちた開拓史の中で志半ばにして物故した者、あるいは離農のやむなきに至った者等、その数決して尠しとしない。それにも拘わらず不撓の精進を続け今漸くその成果をみるに至った。
顧みれば草創以来既に二十有五星霜。嘗ての荒野は今や整斉とした四百五十余町歩の沃土と化し、現存する百二十五戸の同志は益々団結を強め模範的経営者として亦団体として、農林大臣賞の栄に浴した事は我等開拓者の努力の賜と聊か自負するところである。
茲に東雲原開拓者は入植二十五周年を記念し、更に今後の躍進を期する為拓魂不滅を信じて碑を建立するものである。

昭和四十六年十一月吉辰
東雲拓友 開拓入植者一同建之

秋田県

「拓魂之碑」 秋田市河辺町・大張野開拓

拓魂之碑」

秋田市河辺町・大張野開拓

秋田県秋田市の東部に位置する河辺町(旧・河辺郡河辺町)の大張(おおばり)野(の)開拓の歴史は、明治時代にさかのぼる。1880(明治13)年、新政となり禄を離れた士族たちが結成した団体が、政府の資金援助を受けて開拓を始めた。翌年、明治天皇が秋田・山形両県を主に東北巡幸された際、同開拓地に立ち寄られた。だが、その栄誉もむなしく、用水不足で米を作れなかったこと等から、経済的に行きづまり、開拓事業は失敗に終わった。戦後、同開拓地に再び開拓者が入植した。

戦時中、満1418歳までの青少年を満州(現・中国東北部)に開拓民として送り出す「満蒙開拓青少年義勇軍」の制度があった(満州での名称は、満州開拓青年義勇隊)。同開拓地に入植したのは、同義勇隊の引揚者で主に県外出身者だった。46(昭和21)年から49年にかけて47戸が入植したが、18戸が離農し、29戸となった。

標高65㍍前後の台地で傾斜はほとんどなく、土壌は腐植を大量に含有する埴土だった。入植者は開拓の鍬をにぎり、まず、雑穀などの自給食糧の生産を始めた。48年、大張野開拓農業協同組合を設立。64年頃から酪農が導入された。さらに、養鶏・そ菜・陸稲と多彩な営農が行われた。現在は、野菜栽培が盛んである。

大張野鬼子母神社内に、明治天皇が巡幸された時に設けられた史跡「大張野行在所跡」に隣接して、開拓記念碑がある。

開拓記念碑の除幕式は、65年9月に挙行された「大張野開拓二十周年記念大会」において執り行われた。碑銘は「拓魂之碑」。

下面の碑文の末尾には、「前途多難なるも稲穂の波寄せ乳の流るる郷となりし、二十周年を迎へ茲に開拓魂を結集し初志の貫徹を誓い此の碑を建てる」と記されている。

 裏面には、開拓者の氏名が刻まれている

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年4月 秋田・大張野

大張野開拓 「拓魂之碑」

 

①調査日  2017年6月29

②所在  秋田市河辺町大張野

③地区の沿革  標高65米前後の傾斜がほとんどない大地に、満蒙開拓青少年義勇軍の県外出身の引揚者が昭和21年~24年に47戸が入植、18戸は離農。

④設置年月日  昭和40年9月20

⑤設置者  入植者28

⑥碑名  大張野開拓二十周年記念

⑦碑文(表面)  拓魂之碑  秋田県知事 小畑 勇二郎 書

    終戦時満州開拓青年義勇隊に在り、翌年大張野入植、宮前農事実行組合結成、長年に亘り開拓の鍬を把り進取の気概に富む地元の石塚三治郎を初代組合長とし四十数名生活を共にせるも十数名離農、二十三年大張野開拓農業協同組合と改め、引揚者等入植し理想郷建設に専念途上、二代組合長黒澤武夫他数名開拓の礎となれり、前途多難なるも稲穂の波寄せ乳の流るる郷となりし、二十周年を迎え茲に開拓魂を結集し初志の貫徹を誓い此の碑を建てる。

⑧碑文(裏面)  入植者28名の個人名  昭和四十年九月二十日 建立

⑨現在の状況  鬼子母神社(史跡「大張野行在所跡」)で管理されている。

山形県

山形県金山町開拓

アクセス

拓魂不滅
山形県には、45(昭和20)年~47年だけでも引揚者、戦災者ら約3300戸が入植した。北東部の最上郡金山町(かねやままち)長野開拓地には、47年に満州開拓団の引揚者22戸が入植し、再び開拓に打ち込んだ。
標高150㍍の丘陵地で、強酸性土壌だった。根雪期間が長い地区でもあった。入植者は当初、仮設施設で共同生活を営み、開墾を始めた。豆類、バレイショ、ソバなどの栽培に取り組んだ。
やがて開墾が進み、住宅も建ち、53年にはようやく電気が導入された。しかし、53~55年、3年連続で冷害などの自然災害に襲われ、大打撃を受けた。それでも開拓者は希望を失わず、営農を定着させた。
現在、営農を行っているのは11戸となったが、畑作や葉タバコ栽培などで、農産物を安定的に生産している。
77(昭和52)年、町内四つの開拓組合(計41戸)の開拓記念碑が建立された。碑銘は「拓魂不滅」で、困難を乗り越えた開拓の歴史のシンボルとなっている。裏には、まず「金山町開拓事業完了記念」とあり、歴代組合長と入植者の氏名が刻まれている。
山形県は、長野県に次ぐ満州移民送出県だった。金山町には、戦時中、16~19歳の青少年を開拓民として送り出す「満蒙開拓青少年義勇軍」の訓練農場があった。その跡地に、教室・寄宿舎として使われた「日輪舎(にちりんしゃ)」が現存している。円形で屋根は円錐形の独特な木造建物。2階建てで大きく、最大80人収容できた。現在は、イベント会場や体験農場の場となっている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

8月:山形・金山町

長野地区記念碑
①位 置 最上郡金山町朴山(38°53'01.1"N 140°17'18.8"E)
②設置者 金山町農業協同組合
③設置日 昭和53年5月
④碑文表 拓魂不滅 山形県議会議員 岸田一郎
⑤碑文裏 金山町開拓事業完了記念 歴代組合長、入植者氏名
⑥当該地区の沿革等(金山町広報紙584号2011年8月より抜粋引用)

昭和二十二年に満州開拓団からの引揚者で、西村山郡出身者を 始めとする方々が入植し、この地を開拓した。
当初は、入植者全員が「食・住」を共にし、仮屋の建設に始まり、昭和二十八年にようやく農地の整備が一段落したが、当時三年続いた冷害と干害により大凶作に見舞われ、住民を苦しめた。
また、酸性度が強い地質のため、堆肥などの投入により土壌改 良を余儀なくされたが、努力の結果、葉タバコ栽培や養蚕に取り組み、安定した農業経営の出来る耕地を作ることが出来た。
そして、昭和四十四年に開田事業により、稲作を中心とした農 業経営に移り変わった。入植時、二十二世帯だった戸数も六十年を経て、現在は、十一世帯となった。

山形県

「萬古清風」 山形県高畠町・屋代開拓

「萬古清風

山形県高畠町・屋代開拓

山形県は、長野県に次いで満州開拓移民が多かった。その数は、1944(昭和19)年9月時点で6140戸、1万7950人に達した(「山形県開拓誌」69年発行)。戦後、引揚者を受け入れる開拓用地が足りず、県外にも土地を求めざるを得なかった。一方、4610月に施行された「自作農創設特別措置法」により、農地改革が同県でも進められた。県南東部に位置する東置賜郡屋代(やしろ)村(町村合併により現・高畠(たかはた)町北西部)では、未墾地が解放され、開拓事業が行われた。

同村の未墾地買収・売渡計画は、山林の開拓による果樹園の拡大と、湿原の開拓による稲作の拡大という二つの方向に向かって進められた。4910月に開田予定地13町1反歩、開畑予定地48町9反歩の買収計画をもって樹立された。

具体的な買収・売渡計画の作成は、農地改革と同様に農業委員会が行い、開拓事業そのものは、屋代開拓農協(50年3月設立)が事業主体となって実施した。入植当初は食糧増産が目的だったので、雑穀やイモ類の作付けが奨励されたが、次第に条件が緩和され、果樹類の産地を形成していくようになった。

現在の高畠町の人口は約2万2千人で、ブドウ栽培など、農業が盛んである。同町高森の屋代開拓地では、稲作や果樹作(サクランボ、西洋梨、リンゴ、ブドウなど)が営まれている。

同開拓地に「屋代開拓農協五周年記念碑」がある。54年4月に建立されたもので、碑文は「萬古清風」。はるか昔から清らかな風が変わることなく吹くという意味。揮毫(きごう)者は、片山哲(元)内閣総理大臣。

副碑もあり、銘板には「昭和2110月自作農創設特別措置法が施行され、昭和2510月までの四ヵ年間に耕作農民が多年熟望した自作農創設が達成されたのである。波瀾曲折、幾多の難関に逢着したのであるが、地主各位の深い理解と関係官民当事者の努力は既に実を結ぶ。土地配分の恩恵に浴したもの百二十戸相謀り協同組合を結成して開拓事業に精進する」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年6月 山形県高畠町・屋代開拓

屋代開拓 「萬古清風」

 

①調査日  20171010

②所在  東置賜郡高畠町竹森

③地区の沿革  屋代村の未墾地買収・売渡計画は山林の開拓(野手倉山,大笹生入山,姥ケ作山,川ノ清水山)による果樹園の拡大と、湿原の開拓 (大谷地)による稲作の拡大という2つの方向に向かって進められた。

昭和2410月に開田予定地131反歩、開畑予定地489反歩 の買収面積をもって樹立されている。具体的な買収・売渡計画の作成は、農地改革と同様に農地委員会が行うが、開拓事業そのものは屋代開拓農業協同組合が事業主体となって実施した。海外引揚者2名を含む6名の発起人会によって規約が作成され、開拓農協は農協法にもとづく法人組織として、253月に組合員数143名をもって設立されている。

なお、「屋代」は旧村名 昭和29年に町村合併で屋代村は廃止。

④設置年月日  昭和29年4月

⑤設置者  屋代開拓農業協同組合

⑥碑名  屋代開拓農業協同組合5周年記念碑

⑦碑文(表面)  萬石清風 元内閣総理大臣 片山哲

⑧碑文(裏面)  本碑になし(副碑)昭和2110月自作農創設特別措置法が施行され、昭和2510月までの四ヵ年間に耕作農民が多年熟望した自作農創設が達成されたのである。波瀾曲折、幾多の難関に逢着したのであるが、地主各位の深い理解と関係官民当時者の努力は既に実を結ぶ。土地配分の恩恵に浴したもの百二十戸相謀り協同組合を結成して開拓事業に精進する。回顧して感慨無量謝恩と記念の碑を昭和29年4月建立する。

⑨現在の状況  稲作や果樹栽培が盛んな地区で、管理されている。

関東地方

茨城県

茨城県つくば市・南作(つくり)谷(や)開拓

茨城県つくば市・南作(つくり)谷(や)開拓

 

茨城県つくば市の南作(つくり)谷(や)開拓は、筑波山の南西麓にあり、台地が広がっている。

 戦時中は陸軍西筑波飛行場であったが、戦後開拓事業の対象となった。

 85(昭和60)年に建てられた碑に南作谷開拓の歴史が刻まれているので紹介する。

 「創郷之碑」

 自立農家を目指す54戸が開拓の鍬をおろしたのは46年、続いて国の開拓増産の訓練を受けた13戸が加わった。

 甚だしい瘦(や)せ地に加え、肥料・農具は不足、収穫は皆無に近く、そのためこの地を離れる者が多かった。

 明日に希望を繋ぎ、家族をあげての努力を続けるうち、国の助成や融資もあり、経営の危機を続けながらも、次第に収穫物と家畜の増加を見るようになった。

 幾度か凍霜害・冷害・干害があって、経営基盤の浅い我々を苦しめたが全員よく耐え凌いだ。

 58年に始めた芝の作付けはこの地に適するため、急速に広がり、全国有数の生産地となるに至っている。

 66年代から入郷する者増加したが、よく協力・融和し、いささかの違和もない。

 むら創り40年に際し、改めて過去の苦難を回想するとともに、将来も益々協調し、繫栄するのを願い、記念の碑を建てる。

  8511月吉日

   南作谷区民一同

 瘦せた土地で困窮していた頃に、このような土地でも育つ芝生が、ゴルフブームで高値がつくという話を聞き、芝生の栽培に望みを託した。

69年頃の第二次ゴルフブームと共に芝栽培は急速に規模を拡大し、他の集落でも行われるようになった。

 現在、茨城県は芝の日本一の産地で、そのほとんどがつくば市で生産されている。「創郷之碑」の周りは、今も壮大な芝の畑が広がり、筑波山のふもとを緑で染めている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年12月 茨城・作谷

茨城県つくば市・南作(つくり)谷(や)開拓

 

①調査日  2022年5月17

②所在  つくば市作谷

③地区の沿革  昭和21年から67戸が入植した。

④設置年月日  昭和6011

⑤設置者  南作谷区民一同

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  創郷之碑

自立農家を目指す五十四戸が開拓の鍬をおろしたのは昭和二十一年、続いて国の開拓増産の訓練を受けた十三戸が加わった。甚だしい痩せ地に加え、肥料・農具は不足、収穫は皆無に近く、そのためこの地を離れる者が多かった。

明日に希望を繋ぎ、家族をあげての努力を続けるうち、国の助成や融資もあり、経営の危機を続けながらも、次第に収穫物と家畜の増加をみるようになった。幾度か凍霜害・冷害・干害があって、経営基盤の浅い我々を苦しめたが全員よく耐え凌いだ。

昭和三十三年に始めた芝の作付けはこの地に適するため、急速に拡がり、全国有数の生産地となるに至っている。

昭和四十年代から入郷する者増加したが、よく協力・融和し、いささかの違和もない。

むら創り四十年に際し、改めて過去の苦難を回想するとともに、将来も益々協調し、繁栄するのを願い、記念の碑を建てる。     昭和六十年十一月吉日               南作谷区民一同

⑧碑文(裏面)  建立者氏名、入植者故人氏名

⑨現在の状況  南作谷公民館の傍の神社横に建立

栃木県

「鶏頂山開拓賛歌」 栃木県日光市・鶏頂山開拓

「鶏頂山開拓賛歌」

栃木県日光市・鶏頂山開拓

 

 (けい)頂山(ちょうざん)開拓地は、栃木県北西部の塩谷郡藤原町(現日光市)の鶏頂山山腹にあり、近くを日塩もみじラインが通っている。

 標高約1200㍍の高冷地で、起伏の多い火山灰土である。9月下旬には霜が降り、冬期にはマイナス20度の寒さと2㍍の降雪となる。

49(昭和24)年に、満州開拓など外地からの引き揚げ者や県内から2045名が入植したが、厳しい自然条件や禽獣(きんじゅう)の被害により、作物の収穫はほとんど得られなかった。下山・離農する人も多く、一時は9戸にまで減ってしまった。

 残った人たちは「和と協力」を信念に、悪条件を克服する努力を続け、作物選定は困難を極めたが、関係機関の協力もあり、高冷地野菜として夏出しの早生ダイコンの栽培に成功した。生産物は7㌖離れた川治や20㌖離れた鬼怒川までの山道を歩いて販売して現金収入を得た。

 51年に鶏頂山開拓生産農業協同組合(55年に鶏頂山開拓農業協同組合に改名)を設立し、組合共同により京浜中央市場への出荷が開始され、名声を得るに至った。

 改名した頃から、当地区は基本営農類型地区の指定を受け、11戸の新規入植者を迎え、機械化を促進して開拓地の総面積は160㌶まで伸びた。

 その後、水道、電話などのインフラ、出荷施設の建造、道路整備などが行われ、生活も豊かになってきた。

農産物は東京市場でも好評で「鶏頂山大根」は消費者に大人気となる。

69年には、朝日新聞社主催の営農集団コンクールで野菜栽培集団経営日本一として、当農協が朝日農業賞を受賞した。

 同年、開拓20周年を向かえ、式典と共に記念碑が建てられた(写真)。これまでくじけずに開拓を成し遂げてきた誇りを「鶏頂山開拓賛歌」に刻んだ。

現在農家戸数は15戸で、雨よけハウスによるホウレンソウ(約30㌶で年3・5回の生産)をメインにして、畜産農家との連携で有機肥料を活用した野菜生産に進化している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年3月 栃木・鶏頂山

鶏頂山開拓 「鶏頂山開拓賛歌」

 

①調査日  2016年6月24

②所在  塩谷郡藤原町大字高原

③地区の沿革  鶏頂山山地山腹標高1200米で軽しょうな火山灰土で地力が低い原生林を人力で開墾。雑穀を栽培したが収入に見るべきものがなく27年から夏大根を栽培。高冷地の悪条件を克服、夏大根、ほうれん草の一大野菜産地。

④設置年月日  昭和4410

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓20周年記念碑

⑦碑文(表面)  鶏頂山開拓賛歌

荒 れ た 野 山 を 拓 か れ た  天 地 の 神 み そ な は す

  風 さ わ や か な 我 が 郷 土  塾 誠 こ も る 愛 と 汗

起 て 総 親 和 総 努 力   開 拓 の 意 志 う け つ ぎ て

永 久 に 栄 え ん わ が 楽 土 

⑧碑文(裏面)  鶏頂山初代開拓者夫婦19組氏名 

昭和四十四年十月  開拓二十周年建立

⑨現在の状況  日光市高原共同墓地隣接地で管理されている。

栃木県

栃木県那須町・千振開拓

開拓
全国開拓振興協会は会員の協力を得て、開拓の歴史・精神を記録する「開拓記念碑」の調査を実施している。
栃木県北部の那須町・千振(ちふり)開拓は、1946(昭和21)年、満州開拓引揚者73戸が入植。千振の名称は、満州開拓の地元の地名に由来する。第2の開拓に打ち込み、開墾。当初は陸稲、麦中心の畑作経営であったが、気象災害が多く、低収だった。そのため、畑は飼料作物を導入し、酪農に切り換えた。現在、日本でも有数の酪農地帯となっている。
開拓記念碑は入植から20年を迎えた66年の建立(こんりゅう)で、碑銘は「開拓」。碑文の末尾には、「二代三代さらに吾等の子孫がよき村人として立派な日本農民としてこの大地に育ちくれんことを。開拓は決して死なない」とある。(写真は栃木県開拓農協提供)

千 振
碑 銘  「開 拓」 栃木県知事 横 川 信 夫 書
規 模  高さ211cm  横307cm  厚さ15cm

ここの情報を掲載した「開拓情報」

5月:栃木・ 千振

①碑文 碑裏面 (原文は縦書き)
北満の東宮山に別れを告げ/ここ那須山の麓にたどりついたのが/昭和二十一年十一月/皆んな傷つき皆貧しかった/満州に失った千余名の愛し子兄/弟達のことを想ふと立つ力さえ抜/けていった
然しこの吾々を温く抱いてくれた/のはこの那須山と村の人々/力をふりしぼって松や櫟の根っ子と/取り組んだ月の光で荒地を拓き/そして麦を蒔いた出来たものは白穂/だけだった
それでもヘコタレないで拓きに拓いて/二十年那須山に今日もゆるやかに噴/煙がたなびき乳牛の声が緑の牧場/からきこえて来る傷ついた千振の/兄弟達がはげましあい力をあわせて/拓き造ったこの沃野だ
二代三代さらに吾等の子孫がよき/村人として立派な日本農民としてこの/大地に育ちくれんことを
開拓は決して死なない

昭和四十一年十一月
吉 崎 千 秋 記

②沿 革
設立 昭和23年6月1日
入植戸数 73戸
入植者の前身 満州開拓引揚者
現在も事務所を構えて存続、活動している

③所在地
那須町大字豊原丙千振

④立地状況
草地が広がる酪農地帯

⑤その他の記録等
栃木県開拓三十周年記念誌
「千振開拓 六十年のあゆみ」 千振開拓60周年記念事業委員会
「千振開拓 七十年のあゆみ」 平成28年11月に刊行

群馬県

「拓魂」 群馬県嬬恋村・中原開拓

「拓魂」

群馬県嬬恋村・中原開拓

群馬県の西端に位置し、長野県と接する吾妻郡嬬恋(つまごい)村は、周囲を2千㍍級の山々に囲まれた人口約9千人の村。浅間山麓に広がる高原を有し、夏の冷涼な気候を活かした高原野菜の産地。夏秋キャベツの出荷量は、首都圏で約8割を占め、全国一の生産地である。また、数多くの温泉やスキー場などがあり、観光業が盛んである。

1946(昭和21)年、自作農創設特別措置法の施行により、群馬県でも開拓用地として未墾地の取得が計画的に行われた。約1万4千町歩が取得されたが、うち約6割を北西部の吾妻郡が占めた。嬬恋村では、浅間北麓の大笹地区の中原、山梨、大平などの開拓地に計83戸が入植した。

中原開拓地への入植は49年に始まり、入植者は、長野県小県郡にあった神川村(現・上田市)の分村計画による移住者や、大笹地区の出身者ら22戸。海外からの引揚者や農家の次男、三男の人たちだった。

標高1000~14000㍍の高冷地。入植当初は、質素な宿舎での共同生活だった。入植者は寒さに耐え、木の伐採、原野の開墾を続けた。電気が導入されたのは58年、水道施設が整ったのは62年だった。

同村では50年頃から、キャベツが基幹作物になりつつあった。中原開拓地でもキャベツ栽培を営農の柱と決め、作付けに意欲的に取り組んだ。現在、浅間山を背景に広大なキャベツ畑が広がっている。減農薬など環境に配慮した栽培や品質の向上に取り組んでいる。

中原公民館の脇に開拓記念碑がある。78年、入植30周年を記念して建立されたもので、碑銘は「拓魂」。裏面の碑文には、入植からの歩みが詳しく刻まれている。

入植当初について、「当時を回想すればただ黙々と汗と土にまみれ営々努力した開拓魂の長い歳月の辛苦のみを思い出す」とある。その後も営農は順調ではなかったことを記した上で、末尾には「かつての荒野に大型機械が逞しい響きを伝えて近代農村としての成功をたたえているかのようである今眼を閉じて往時を回顧すればすべて懐かしい思い出に変わる」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年11月 群馬・中原

中原開拓 「拓魂」

 

①調査日  2018年5月28

②所在  吾妻郡嬬恋村

③地区の沿革  昭和23年神川村の分村入植地に決定し、農家の次三男等を主とする30名が24年に開拓団を組織し入植した。

④設置年月日  昭和5311

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  拓魂 元開拓連会長 高島照冶 謹書 

⑧碑文(裏面)  第二次世界大戦に敗れ打ちひしがれた人々は虚脱と混乱の中に希望を失っていた この時長野県神川村当局と農地委員会は食糧の増産と国土再建の一翼をすべく分村計画を立案し議決した昭和二十二年のことであった 先ず入植地を何処に求めるかで諸候補地の見分調査した結果浅間山山麓で群馬県側のこの地が神川村分村入植地に決定したのは翌二十三年であった 同年に入植希望者を募り二十四年に開拓団を組織した団長に山越修蔵 副団長に北川太郎吉両氏を決定した団員総数は三十名で農家の次三男などを主として引場者戦災で家を失った者などさまざまであった 団員は新しい大地を拓き理想の村を建設すべく固い団結と意思を誓い合い勇躍して入植地に移住した 然しそれぞれが資金も無くその日の食にもことかくありさまであった 地味のやせた入植地の欠点や幾多の災害遭い時には絶望感に陥ったことも再三ではなかった今 当時を回想すればただ黙々と汗と土にまみれ営々努力した開拓魂の長い歳月の辛苦のみを思い出す 初の二ヵ年半間は共同生活を営み青春の血をたぎらして開拓の熱意一筋に頑張って人力と畜力により荒野もついに一戸当たり農耕地八十アールと住宅二十三.一平方メートルの成果を挙げ二十二戸の各自が独立自営することに成功した努力は遂に報いられたのである 然し独立農となっても土地の未確定問題などがあり営農は必ずしも順調では無かった その絶望に堪えられず数名の団員の入れ替えがあり前途多難を思わせたが昭和三十六年に待望の機械が導入されたことにより開墾はにわかに進歩をみるに至り一戸当たり三百六十アールの分配面積が完了し 将来に光明を見出すことができた 昭和三十三年には電気が導入され三十七年には水道施設が整った それぞれ独立した団員は酪農を始める者蔬菜を主とする者等 開拓地に適した営農形態により安定化の方向へと進んだが最終的には蔬菜1本に集約されたことにより収入も急激に増大した こうして三十年前に夢見た楽土はここに功を収め文化的生活を営むことができたのである かつての荒野に大型機械が逞しい響きを伝えて近代農村としての成功をたたえているかのようである今眼を閉じて往時を回顧すればすべて懐かしい思い出に変わる この間母村神川村当局をはじめ地元嬬恋村当局 さらに又関係各機関の指導援助を受けた恩愛を心より感謝し 併せて共甘同苦して築き上げた団結と努力を子孫に伝えるため入植三十周年を記念しこの碑を建てる

    昭和五十三年十一月吉日  萩原 進 撰文  松村無心 

記念碑建設委員氏名  入植者氏名 

⑨現在の状況  地区内に建立され管理されている。

群馬県

群馬県吾妻郡長野原町

大屋原開拓記念碑
群馬県吾妻郡長野原町
群馬県の北西部、吾妻郡長野原町は人口約5千で、地域のほとんどは標高500㍍以上の高地。南部の北軽井沢地区には戦前から、避暑を目的に別荘が建てられた。戦後、浅間山の東北麓の6開拓地に、満州(現・中国東北部)からの引揚者らが入植し、荒漠たる原野を切り開いた。
レタス・キャベツ畑や牧草地が広がる現在の大屋原(おおやはら)地区に、満州に送り込まれた「満蒙開拓団」の慰霊塔と開拓記念碑がある。
慰霊塔はレンガ造りで「群馬満蒙拓魂之塔」と刻まれている。物故者の慰霊供養のため、県下の開拓関係者によって74(昭和49)年に建立された。裏面の「建立の由来」によると、同県から満州への移民は、開拓団と青少年義勇団を合わせ8780余名。45年8月、敗戦による混乱で1680余名が犠牲になった。
慰霊塔の隣は大屋原公民館で、敷地内に開拓記念碑がある。大屋原開拓就農組合が76年に、開拓30年を期して建立したもの。碑銘は「大屋原開拓記念碑」。入植は47年3月から始まった。57年に電気導入、61年に水道完成。記念碑建立時の農家戸数は41戸だった。
碑文には、「戦後の極度な食糧事情の不良のなかにあって 酷寒とたび重なる台風 冷害 凍霜害と戦いつつ 助けあいはげましあって築いていったここの『村づくり』の汗と涙の三十年の歴史こそは 将来ここに生きるものにとって永遠に忘れてはならぬものであろう」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年6月 群馬県吾妻郡長野原町

大屋原開拓記念碑
①位 置 群馬県長野原町北軽井沢(36.490375, 138.596036)
②設置者 大屋原組合
③設置日 昭和51年10月
④碑文表 大屋原開拓祈念碑
開拓三十年
木を伐り筈を焼き
芝を起し岩や株を除いて
熊の出る荒野を一鍬づ々拓いた
すばらしいみんなのちからよ
乳とりんごと○葉のうましむら
大屋原のあしたは明るい。

煙り吐く火の山のふもとに
くるしみもよろこびも
わかちあいちからをあわせて
この高原を拓いたわれら
いまさらにして知る
ひとりの人の重さと人の世のありがたさを。

開拓の友よ
往くては涯しなく永く遠い
雨の日も風の日も
力を協せ扶けあい
生ける日のかぎり
まもれこのうまし村を

拓翁

⑤碑文裏 開拓祈念碑建立にあたって
第二次世界大戦終焉後の日本政府は 幾多の重大な戦後方策のうち社会不安を除くため もっとも窮乏していた食糧の増産を図るべく国内緊急開拓を占領治下において実施した ここ大屋原高原に入植したものは 元満州国吉林省磐石県駅場開拓団並びに青少年義勇隊からの引揚者 及び其縁故者と、特に県の認定を得た優秀青年とであった。
標高一千メートル 地力の痩せた浅間山系の火山灰土 カラ松と熊笹の茂ったこの高原に挑んだ開拓者達は不退転の「拓魂」の持ち主であった。戦後の極度な食糧事情の不良のなかにあって 酷寒とたび重なる台風 冷害 凍霜害と戦いつつ助けあいはげましあって築いていったここの「村つくり」の汗と涙の三十年の歴史こそは将来ここに生くるものにとって永遠に忘れてならぬものであろう
経過を要約すれば

一、入植開始    昭和二十二年三月
二、道路建設    昭和二十二年より
三、部落設定    昭和二十四年
四、電気導入    昭和三十二年
五、水道完成    昭和三十六年
六、土地配分完了  昭和四十二年
七、現在農家個数  四十一戸

顧れば国 県 町や多くの人々に助けられて困苦営々 ここに三十年 凡そ入植当初よりの目的をほぼ達成したので 宿願の公民館落成を機とし、今後のより高次なる発展に大なる期待をよせてこの碑成るの日 謹んで不幸にも志なかばにして物故した同志の霊を厚く弔い併せて拓友の偉大なる協力を讃えたい

昭和五十一年十月吉日 大屋原組合
組合員氏名
清水圭太郎 ほか

群馬県

群馬県利根郡昭和村 「赤城原 開拓記念碑」

赤城原 開拓記念碑
群馬県北部の利根郡昭和村は農業が盛んで、レタスやハクサイ、ホウレンソウなど高原野菜の産地。その中心地が赤城高原開拓地だ。
赤城山の北麓の同開拓地は、旧陸軍の演習地だった。標高400~800㍍の高冷地帯。飲料水を得ることすら困難な未墾地だった。開拓者は主に手作業で開墾した。晩霜害や集中豪雨などの自然災害が多かった。また、火山灰土壌で軽石が多く、干ばつ害を受けやすかった。厳しい自然条件下で、作物は思うように育たなかった。
入植当初は雑穀類の生産だったが、ようやく畑地かんがい施設が完成し、1965(昭和40)年代、野菜専業に転換。生産量が年ごとに増加し、高原野菜の供給基地となった。
赤城原地区に赤城開拓農協、追分地区に赤城高原開拓農協があった。関越自動車道の昭和インターを降りて、5分位の所に開拓記念碑がある。赤城開拓農協が84(昭和59)年に建立したもので、碑銘は「赤城原 開拓記念碑」。隣に碑銘板があり、開拓期のあらましが記されている。
46(昭和21)年4月から52年4月までに89戸が入植。碑文には「この荒野に樹木を伐採してカヤ葺の掘立小屋を造り大きな木の切り株やカヤ株等の抜根に悪戦苦闘し現在の機械化と違って一鍬一鍬の開墾は実に血と汗の結晶であった」と、困難に立ち向かった状況が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

1月:群馬・赤城原

赤城原開拓記念碑
①位 置 群馬県昭和村
②設置者 入植者
③設置日 昭和59年6月
④碑文表 赤城原

開拓記念碑
群馬県議会議長 元県開拓連会長 高島照治 謹書

副 碑 開拓碑建立の由来
昭和二十年八月 吾が日本は大東亜戦争に敗れ都市の大半は焦土と化し農村は極度に疲弊し猶且戦災者復員軍人或は海外引揚者等でこの狭き国土は有史以来未曾有の大混乱に落ち入った
この時国策による緊急開拓事業が施行されここ赤城山西北麓の旧陸軍演習場であった原野の一角に昭和二十一年四月第一次入植者として帰農した者六十四名引き続き第二第三次入植者は昭和二十七年四月迄に二十五名になった
入植後久呂保就農組合 利根開拓連合協同組合久呂保支部と変遷があったが昭和二十五年五月政令により赤城開拓農業協同組合が誕生して開拓組織の団結と地域農業の振興が打ち出された
この荒野に樹木を伐採してカヤ葺の掘立小屋を造り大きな木の切り株やカヤ株等の抜根に悪戦苦闘し現在の機械化と違って一鍬一鍬の開墾は実に血と汗の結晶であった
時には冷害或は旱魃又は台風害等幾多の試練と苦難を乗り越え乗り越えて従来の雑穀農業より畜産経営へ或は酪農蔬菜経営と大きく移行し現在では既存農家に優るとも劣らぬ程の立派な経営と成果を挙げる迄に至ったのである
又水一滴さえ無きこの里へ竹樋から水道を 農地には吾が国初の畑灌漑を 薄暗きランプ生活から煌々たる電灯を掘立小屋から近代的住宅にガタガタ農道は舗装されて漸く一般社会の生活に伍する程になった
この間開拓の志し空しく離農した者十余名又不幸にして病魔に倒れた物故者二十一名を数える風雪の三十八年を迎え開拓行政の終焉と共に一般行政へ移行し名誉ある開拓農協の発展的解散を行うに当り茲に記念碑を建立しこの地永遠の平和と繁栄心より祈念するものである

埼玉県

「開拓碑」 埼玉県入間市・桂開拓

「開拓碑」

埼玉県入間市・桂開拓

埼玉県の戦後開拓地の入植状況は、1945(昭和20)年から54年までの10年間で、入植戸数1767戸、離農戸数445戸、差引定着戸数1322戸だった(「開拓三十年」78年発行)。

開拓地は県東部、西部には少なく、中部に多かった。中部地区は、旧・軍用地が集中していたことや、地形的に台地が多かったことから、開拓用地として払い下げられる面積が大きかった。

県南部で東京都と接する入間市は、都心への通勤圏内にある。同市においても、戦後、狭山飛行場跡地や民有地で開拓事業が実施された。49年、当時は入間郡に属していた金子村の西南端地区の民有林70㌶が、政府買い上げにより開放され、地元の二・三男及び復員軍人等20戸が入植した。同地区を流れる桂川(現・霞川)にちなんで、桂開拓と命名。同年、桂開拓農協を設立した。

食糧をはじめ、肥料や農機具が不足し、開墾は苦労の連続だった。入植者は鍬による手作業で開墾を行った。51年から53年にかけて、待望の電灯が灯り、ランプ生活から解放された。組合員は毎日、開墾作業に励み、営農は陸稲やスイカ栽培へと進んだ。やがて、茶栽培や畜産も盛んになった。現在、肉用牛肥育などが営まれている。

80年、開拓地に「桂公会堂」が完成。82年、公会堂の敷地内に記念碑を建立し(写真㊤左)、除幕式を挙行した。

記念碑の碑銘は「開拓碑」で、下側に碑文が浅く刻まれている。中段には、「当時、終戦直後のため、農業経験の未熟に加え、諸物資は不足し、特に農業経験の浅い入植者の生活は極度に困窮に達した。併し、我々は一致協同開拓精神を発揚し、この苦難を乗り越え只管(ひたすら)開拓事業に邁進した」とある。裏面には、入植者の氏名・出身地が記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年7月 埼玉・桂

桂開拓「開拓碑」

 

①調査日  20221129

②所在  入間市木蓮寺

③地区の沿革  地元の二三男及復員軍人並に引揚者等20名が入植

④設置年月日  昭和57年4月

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面) 開拓碑

昭和二十年八月終戦を迎え極度の食糧不足を補うため国は緊急開拓事業実施により金子村の民有地七十余町歩を買収しこの地に金子村より十五名、元狭山村より三名、その他の地区より二名計二十名が入植した。

この二十名は地元の二三男及復員軍人並に引揚者等であった。昭和二十四年農協法の制度により桂開拓農業協同組合を設立した、当時終戦直後のための農業経験の未熟に加え諸物資は不足し特に農業基盤の浅い入植者の生活は極度に困窮に達した併し我々は一致協同開拓精神を発揚しこの苦難を乗り超え只管開拓事業に邁進した。又国の助成により住宅電灯の外営農に必要なる物資の供給を得現在の基盤を獲得した。これから先我々は日本農業の先駆者として新農村の建設に邁進し益々当地区の発展を期し各農家の健全と安定を期すると共に子孫の繁栄を祈りこの地の足跡と由来を後世に残すためこの記念碑を献立することにした。

昭和五十七年四月

      元埼玉県開拓農業協同組合連合会会長 西嶌道助書

⑧碑文(裏面)  十八戸の入植者の氏名

⑨現在の状況  桂公会堂地内で管理されている。

埼玉県

埼玉県深谷市・櫛挽ヶ原開拓

埼玉県深谷市・櫛挽ヶ原開拓
埼玉県北部の深谷市は、ネギ 、ダイコン などの野菜 、花き、肉用牛生産で農業 算出額が県内1位。 利根川と荒川に挟まれ、北は群馬県と接する。南西部の櫛挽 (くしびき )地区は、戦後開拓事業により切り開かれた。
開拓地の櫛挽ヶ原 は 約500㌶に及 び、大方は平地林(原野が占めていた 。くぼ地が多く、一帯の野水が停滞 する悪条件 の地形 だった 。 また 、1~2年 毎 の 旱魃(かんばつ)で水不足になる、 農耕には向かない土地だった。
1946(昭和21)年に入植が始まり、翌年末までに総計242戸の県下最大の開拓地となった。 冬は 、北風(赤城おろし が 吹きつけるため 、防風林にする部分は木を残し、開墾を進めた。たまり水を排除するため、荒川への排水路の開さくを第一とした。
48年に設立された「 櫛挽ヶ原開拓農協 」は、82年に「櫛挽農協」に名称変更。90 年には深谷市 農協 に統合し、現在、ふかや農協櫛挽支店となっている。 その敷地内に開拓記念碑がある。 櫛挽ヶ原開拓農協が入植30 周年を記念して76年に建立したもので、碑銘は「 拓魂 」 。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

4月:埼玉・櫛挽ヶ原

碑文は、入植時からの苦労が詳細に記されている。 49年に荒川放水路が完成したものの 、農業用水は雨水に頼った。碑文には「 然し次々と襲ってくる霜害、雹害、旱魃等 の 天災が容赦なく発生して収穫に減少をきたし、意気全く銷沈し前途に希望を失い離農する者もあったが、同志相互苦難の中に受け継いで開拓精神を発揮し 、手を携えてきた」とある。
特に旱魃が課題だったが、 ようやく99年に 全地域に導水できる施設が完成し、営農の基礎が確立された。
今日では、平行に走る防風林に守られ 、整然と区画割りされた農地で営農が展開されている 。

埼玉県

「開拓の碑」 埼玉県所沢市・東川開拓

「開拓の碑」

埼玉県所沢市・東川開拓

埼玉県の南西部に位置する所沢市は、都内までの交通の便が良く、人口は約34万人。中心部の所沢地区には高層マンションが建ち並び、大型商業施設も多い。同市東部の松郷(松井地区)、神郷(柳瀬地区)では、戦後開拓事業が実施された。

「開拓三十年」(1976年発刊)によると、入間郡所沢町(現・所沢市)と同柳瀬村(同)にまたがる民有林を開拓地として解放する話し合いが地元の農業委員会に持ち込まれたのは、46(昭和21)年夏のことだった。開拓に反対する旧地主との調整が難航したが、4710月、復員者らの入植が承認され、開拓事業が開始された。

49年1月、地区内を貫流する東川(あずまがわ)を名称とする「東川開拓農業協同組合」が発足。同年、第1次入植者22名に第2次入植者8名が加わり、組合員は30名となった。50年、所沢町の市制施行を機に、開拓地の所沢分を松郷、柳瀬分を神郷と行政区域を分離した。

開墾は苦労が続いた。水源が乏しく、自給食糧の確保が困難だった。52年、組合員の総力によって幹線道路が完成。53年には電気工事に着工し、待望の電灯が導入された。63年、畑地かんがい工事が完了。営農は畑作から水田、さらに畜産への道をたどった。現在、松郷及び神郷は主に住宅地となっているが、松郷霊園の付近には農用地が広がっている。

その霊園の敷地内に記念碑がある。77年に「東川開拓友の会」が建立したもので、碑銘は「開拓の碑」(写真)。碑文には、開拓者の苦労が記されている。後段には、「当初より困苦に耐え、欠乏を忍んで、ひたむきの努力を重ねつつ、荒地と闘いながら、発展し続けてきた三十年の過去を回顧して、誠に感慨無量である。 ここに三十周年記念碑の建立にあたり、初代入植者の足跡を記すとともに、子孫の繁栄を願うものである」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年10月 埼玉・東川

東川開拓 「開拓の碑」

 

①調査日  20221129

②所在  所沢市

③地区の沿革  昭和2310月に30戸が入植した。

④設置年月日  昭和52年3月

⑤設置者  東川開拓友の会

⑥碑名  入植30周年記念碑

⑦碑文(表面)  開拓の碑  旧所沢町と柳瀬村にまたがる一六〇ヘクタールの民有林を開拓地として解放する話は、昭和二十一年夏のことだった。当初、県の計画が地元の希望する計画と食い違ったため、開拓反対の声が両町村の旧地主の間に高まり解放の話し合いは難航した。二十三年十月ようやく地元の希望が承認され、入植者三〇戸増反者一五〇戸について、畑用地九〇ヘクタール、道路用地十ヘクタールの配分が決まり、所沢柳瀬地区の開拓事業が開始された。昭和二十四年一月入植者三〇戸を組合員として、東川開拓農業協同組合が設立され、二十六年、所沢町の市制施行を機に、開拓地の所沢分を松郷、柳瀬分を新郷と行政区域を分離した。昭和二十七年には組合及び増反者の総力によって、幹線道路が完成し、翌二十八年に待望の電灯が導入された。昭和三十八年には大型畜産農家も出現していたが畑地灌漑工事が施工 され、受益面積は三〇ヘクタールに及ぶ施設が完成した。

裸一貫の入植者が、住居、水、道路、電灯、食糧、衣料等、皆無より有  を生み出す営農の苦労は筆舌に尽せるものではなく、その上、天災は容赦なく襲ってきたが、当初より困苦に耐え、欠乏を偲んで、ひたむきの努力を重ねつつ、荒地と闘いながら、発展し続けてきた三十年の過去を回顧して、誠に感慨無量である。ここに三十周年記念碑の建立にあたり、初代入植者の足跡を記するとともに、子孫の繁栄を願うものである。     昭和五十二年三月吉日

東川開拓友の会建立  元埼玉県開拓連会長 西嶌道助 書

⑧碑文(裏面)  三十戸の入植者の氏名が刻まれている。

⑨現在の状況  松郷霊園内で管理されている。

千葉県

千葉県四街道市・鹿放ヶ丘開拓 「生命乃開花」

生命乃開花
千葉県の戦後開拓地は、旧軍用地が多かった。千葉市、四街道市、佐倉市にまたがる広大な「下志津原」は旧陸軍の演習地だった。
1945(昭和20)年の終戦直後、戦災者や復員兵が入植し、下志津原開拓団が結成された。
その中心部(四街道市)に、茨城県内原町(現・水戸市)にあった「満蒙開拓青少年義勇軍訓練所基幹学校」の生徒約170人が入植した。
翌年、開拓団から独立した。47年に地区名を、江戸時代に鹿狩りが行われていたことにちなみ、鹿放ヶ丘(ろっぽうがおか)と命名。48年には鹿放ヶ丘農苑開拓農協を設立した。
同開拓地は荒野で農業用地として適していなかった。
一見、平坦に見えても長雨や強風などの自然災害が多く、初期の開拓は困難を極めた。
災害克服のため、共同作業でかんがい施設や防風林などを設けた。
51年には住宅を建設し、同訓練所の延長のようだった共同経営から個人経営に移り始めた。
強い団結力で共同作業を継続し、経営の確立をめざした。
その後、開拓農協は総合農協と合併。現在、都市近郊(千葉市から北へ約7㌔)の同開拓地では、後継者が酪農、養鶏などの畜産、落花生、野菜中心の畑作を営んでいる。
開拓記念碑は、70年の鹿放ヶ丘開拓25周年記念行事で、業績を後世に伝えるものとして建立された。
碑文は「生命乃開花」と25年の歩みの説明書き。裏面には、組合員及び賛同者の氏名が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

12月:千葉・鹿放ヶ丘

生命乃開花
我等は当時の国策に添い満州開拓の志をたてて、茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所し、所長加藤完治先生の薫陶をうけたが、昭和二十年八月十五日大東亜戦争の終結を機に内地開拓に転換し、軍用地下志津原の一画二百六十余ヘクタールの荒野に入植した。内原以来の指導者高井篤先生を中心に、当時十五才から十八才の青少年が主体となり、外に引揚外地開拓者及び縁故者が加わった。
発足時は全共同経営で軍用牽引車、馬を駆使して開墾営農を進めると共に乳牛豚鶏を導入し、畜舎仮宿舎庫を建て農産加工製造販売等に至るまで、漸く事業の進捗を見た。さりながら混沌とした世情と極度に物資の欠乏している際の開拓事業は誠に困難を極め、一致団結困苦欠乏に堪え抜く努力と、先覚者関係当局地元の指導助力と相俟って、当初の難関を克服し成功への曙光をみることが出来たのである。
昭和二十六年には住宅を建設し、逐次個人経営に移り、組合を中心に機械の導入畜産園芸の拡充等を企画実施し、また、畑地灌漑の施設、大型機械による営農形態の確立等農業近代化に努める一方、部落に神社墓地グランド及び青年会館を設置した。
昭和四十年に開拓の実績が認められ朝日農業賞の表彰を受けて以来、組合員の生活の安定向上と組合事業の高度成長によって経営の基礎が確立したので、昭和四十四年に、懸案の組合事務所農業倉庫生活センター等を現地中央に新築移転して、開拓事業の目的をほぼ達成することができた。今後、我等は発展の途を極めようとするものである。 ここに開拓二十五周年を迎えるに当たり記念碑を建て組合員、賛同者の名を刻み業績を校正に伝えるものである。

昭和四十五年十一月十日

篆 額  高井  篤
撰 文  安達 増三

加倉井  翠園 書之

中部地方

新潟県

「五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑」 新潟市西区真砂

五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑

新潟市西区真砂

新潟県新潟市西区真砂の住宅地内の小さな公園に、開拓記念碑がある。同地区(旧・西蒲原郡内野町)は戦前、不毛の海岸砂丘地だったが、戦後開拓事業が実施された。

1946(昭和21)年頃、新潟市内居住の引揚者から、同地区を開拓地に設定するよう、県に熱心な陳情が続いた。やせた砂丘地で、適地とは言い難かったが、開拓地を最大限確保する必要性から、県は同地区の取得に取りかかった。

入植希望者は案外多かった。4911月、11戸の農家が入植し、五十嵐浜開拓農業協同組合を設立した。標高1~16m、面積52㌶の荒涼たる砂原だった。入植者は、地区の海岸寄りに砂防垣を設け飛砂防止に努めるとともに、開墾作付けや、定住のための各種作業に専念し、数年が経過した。

やせた地力に加え、風害や日照りが相次ぎ、伸び悩みの農業生産に、開拓者の闘志も鈍りがちだった。

養豚経験者が、都市近郊の特殊環境を活用し、残飯主体の養豚を始め、大規模経営に発展した。これに啓発された他の開拓者も、養豚や酪農などに力を注ぎ、一大畜産団地が形成された。

一方、新潟市が発展して大きくなりつつあった。5859年、地区縦断の産業道路が整備されてから、急速に街並みが伸びることになり、近辺一帯の農地転用が著しく増加した。60年1月、内野町は新潟市への編入合併により、町名は真砂町となった(現・西区真砂)。

現在は宅地となり、昔日の開拓地の面影はない。住宅地にある記念碑は、同開拓農協が67年9月に建立したもので、碑銘は「五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑」。

裏面には、碑文と入植者11名の氏名・生年月日が刻まれている。碑文の後段には、「入植以来飛砂風雪とたたかい熱砂旱魃に耐え親和協力し よく営農の実をあげ子孫の道を開いた」「当時の姿と努力を偲んでここに記念碑を建て後世に伝えるものとする」と記してある。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年3月 新潟・五十嵐浜

「五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑」

 

①調査日  2018年4月11

②所在  新潟市西区真砂

③地区の沿革  昭和2411月標高1~16米、面積52㌶の荒涼たる砂丘地に11戸が入植。

④設置年月日  昭和42年9月15

⑤設置者  五十嵐浜開拓農業協同組合

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  五十嵐浜開拓団 開拓記念の碑 新潟県知事 亘 四郎

⑧碑文(裏面)  此の附近一帯(眞砂町5821番地)は裏日本特有の飄々とした不毛の砂丘地であったが太平洋戦争後 国の食糧増産の一旦を担い生活の礎を築こうと昭和2411411戸の農家が入植して五十嵐浜開拓農業協同組合を設立した 入植以来飛砂風雪とたたかい熱砂旱魃に耐え親和協力しよく営農の実をあげ子孫の道を開いた 昭和35111日内野町が新潟市に合併され大新潟市の住宅地として目覚しい発展をとげ現在の姿となった 当時の姿と努力を偲んでここに記念碑を建て後世に伝えるものとする

昭和42915

   五十嵐浜開拓農業協同組合  入植者11名の氏名と生年月日

⑨現在の状況  住宅地内の小公園に立地し、管理されている。

新潟県

「開拓之礎」 新潟県阿賀野市・畑江開拓

「開拓之礎」

新潟県阿賀野市・畑江開拓

 

新潟県では65地区で戦後開拓事業が実施された。下越地方に位置し、新潟市に接する阿賀野市は04年に旧・北蒲原郡安田町、水原町、京ヶ瀬村、笹神村の4町村が合併して発足。旧・笹神村の畑江地区には、旧・満州(現・中国東北部)からの引揚者等が入植した。

満蒙開拓移民事業により、旧・南蒲原郡の町村で構成する「刈谷田郷開拓団」は45(昭和20)年夏に渡満したが、荷物の到着も待たずに終戦を迎えた。悲運の開拓団は死線を越えて引き揚げたものの、住む場所もなく、同郡見附町で待機した。

46年9月、同開拓団のうち21戸が畑江地区に入植。用地は国有林で、扇状の緩傾斜地だった。地元縁故者も加わって、開拓事業が始まった。地元縁故者以外は、共同小屋から出発し、生活も作業も共同で進められた。

開畑を計画したが、石(せき)礫(れき)が多く、開墾・耕作ともに困難で、可耕地が少なかった。また、春から夏にかけて季節風が強く、作物の地上部が傷めつけられた。不慣れな帰農者が大半を占めていたこともあり、営農は伸び悩みの期間が長く続いた。畑作の基幹形態を決め難いままに、営農は養蚕、畜産などの方向に分かれた。

同市畑江の畑江公民館の敷地内に開拓記念碑があり、地区内で管理されている。畑江開拓農協(76年解散)の顕彰を記念して、97年に建立されたもの。周辺は中山間地で、畑作、畜産を中心に営農が行われている。

記念碑の碑銘は「畑江開拓農業協同組合顕彰記念之碑 開拓之礎」。裏面には碑文と組合員氏名が刻まれている。碑文には、「当時、戦後の食糧難と合わせてほとんどが手作業による山林開墾という重労働は想像を超えたものであった。それこそ毎日が貧困と重労働による二重の生活苦との戦いであった」「以来、苦節五十余年が経過し、ようやく人並みの生活基盤を持つことができるようになった」と記してある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年3月 畑江開拓農業協同組合 開拓之礎

畑江開拓農業協同組合 開拓之礎

 

①所在  新潟県阿賀野市畑江

②設置年月日  平成9年11

③設置者  畑江開拓農業協同組合 組合員

④碑名  畑江開拓農業協同組合顕彰記念碑

⑤碑文(表面)  畑江開拓農業協同組合顕彰記念之碑

           開拓之礎  組合長 渡邉隆司 著

⑥碑文(裏面)  昭和二十一年(一九四六)九月一日、満州開拓引揚者を主体に二十一戸がここ笹神村(笹岡村)畑江(勝屋)の地に入植し、開拓事業がはじまる。当時、戦後の食糧難と合わせてほとんどが手作業による山林開墾という重労働は想像を超えたものであった。それこそ毎日が貧困と重労働による二重の生活苦との戦いであった。               

そのため昭和二十六年頃になると、貧困と重労働 それに将来の希望が持てないということから離村者が出はじめるようになったが、新しい入植者もあったりして戸数減ということにはならなかった。

以来苦節五十余年が経過しようやく人並みの生活基盤を持つことができるようになった。

昭和五十一年三月三十日付けで、新潟県通達の解散命令により畑江開拓農業協同組合は解散となる。

平成九年十一月、これまでの畑江開拓農業協同組合の顕彰を記念してここに記念碑を建立する。

                  下段に組合員47名氏名

⑦現在の状況  畑江公民館敷地内に立地し、管理されている。

新潟県

新潟県妙高市・大洞原開拓

開拓之碑
新潟県南西部に位置し、長野県に接している妙高(みょうこう)市関山は、国内有数の豪雪地帯。戦後、県内最大の入植があったが、残り得たのは25戸の大洞(だいどう)原(はら)開拓集落のみだった。
1946(昭和21)年、妙高山麓の標高600㍍の高冷地に入植したものの、厳寒のため49年に400㍍の現在地に移動。雪深い地域だったが、永住の地と定めた。広大な山野を控えながら稲作しかない地帯に、開拓者達はバレイショ原種栽培や高冷地抑制トマトなどの畑作園芸を取り入れ、酪農も興した。現在、高原の開拓地内では、トマト栽培など高冷地野菜を中心とした営農がされている。
開拓記念碑は87年、開拓地の集会所敷地内に建立された。碑銘は「開拓之碑」で、裏が碑文と入植者氏名となっている。碑文の後段には、「時代の変遷に伴い目的は夫れ夫れ変化しつつあるが開拓一世が残した足跡は厳然として存在するものである」と記してある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

6月:新潟・大洞原

大洞原開拓記念碑
①位 置 妙高市関山(36°54'59.7"N 138°12'31.3"E)
②設置者 入植者一同
③設置日 昭和62年
④碑文表 開拓之碑
⑤碑文裏
昭和21年妙高山麓の開拓として旧関山村五最地区に入植せるも諸種の事情により昭和24年春現在地を開拓し永住の地を定む
当時25戸の同志は現在23戸となり若干の変動はあったものの今も尚其の意志を継承す
時代の変遷に伴い目的は夫れ夫れ変化しつつあるが開拓一世が残した足跡は厳然として存在するものである
よって開拓40周年し後世に事業遂行の意義の一端の認知を期待するものである
昭和62年吉日 建之  23名の氏名
⑦記念碑の現在の立地状況
高原の開拓地の集会所敷地内に立地し、開拓地内はトマト栽培など高冷地野菜を中心とした営農がされている。

富山県

富山県南砺市・立野原開拓地

拓魂豊潤

富山県南砺市・立野原開拓地

 

富山県の西部、砺波平野の南西端に位置する立野原(たてのがはら)は、戦時中、陸軍の軍事演習場だった。45(昭和20)年11月、約600㌶の旧・陸軍用地が戦後開拓地として払い下げられ、復員軍人や引揚者らで組織する立野原開拓団によって開墾が進められた。

立野原は県内でも入植者の多い戦後開拓地だった。広大で、南砺市福光地区(旧・西砺波郡福光町)と同城端地区(旧・東砺波郡城端町)にまたがっている。戦後開拓地は山間地が多かったが、立野原の北部はほぼ平坦で、南部も傾斜の緩い台地である。標高は平均190㍍。小渓流があるが、水量が少なく、土壌は強酸性だった。白山山系の急峻な山々に接しているので初雪が早く、融雪は遅いため、作物の作付けに制約を受けた。

立野原開拓農協が設立され、土地の配分や開墾作業、土壌改良、入植施設事業などを推進した。入植者は、酪農の導入、葉タバコや野菜の栽培などに取り組んだ。

現在は、ダイコン、タマネギ、サトイモなどの野菜やイチゴ、同市特産の「干し柿」用の柿が栽培されている。また、観光農業として、「イチゴ狩り」が行われている。

福光地区に、78(昭和53)年に建立された開拓記念碑がある。大きな記念碑で、碑銘は「拓魂豊潤」、揮毫者は「農林大臣 中川一郎」。隣の副碑には碑文が刻んである。

前段に「明治の後期から終戦までの四十数年間は立野原陸軍演習場に接収され 多くの集落が解村離村を余儀なくされた」とあり、先住者が立ち退きを求められ、移転に至ったことが判る。

続いて、「戦後一転して二百十世帯に及ぶ開拓団の入植地と変わったが しかしその艱難辛苦の開墾営農は言語を絶するものであった」「昭和四十二年念願の国営刀利ダムの完成により当地の用水源が確立し 先史以来の夢が遂に実現の運びとなった」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年12月 富山 立野原

立野原地区 拓魂豊潤碑

 

①所在  富山県南砺市立野原西

②設置年月日  昭和53年9月

③設置者  立野原地区委員会

④碑名  拓魂豊潤碑

⑤碑文(表面)  県営農地開発事業立野原地区完工記念 拓魂豊潤 

 農林大臣 中川一郎

⑥副碑(表面) 我々が生活の基盤として深い愛着をよせる「立野ヶ原」は今から約一萬五千年前先土器時代の人跡に始まり長い歴史と変遷に伴い極めて多難な道を辿ってきた 珠に明治の後期から終戦までの四十数年間は立野原陸軍演習場に接収され多くの集落が解村離村を余儀なくされた 戦後一転して二百十世帯に及ぶ開拓団の入植地と変ったがしかしその困難辛苦の開墾営農は言語を絶するものであった 昭和三十年台に入るとこの地域を含めた抜本的開発を指向する小矢部川総合開発計画が樹立なされこれに基づき昭和四十二年念願の刀利ダムの完成により当地の用水源が確立し先史以来の夢が遂に実現の運びとなった ここにおいて関係農家が総結集して一大決意を固め拓魂の機熟するにいたり 昭和四十四年県営総合農用地開発事業立野原地区として着手され以来幾多の困難を克服し長い歳月と巨費を投じて南砺を一望するこの高台に優良農用団地として新しい「立野原」が堂々完工した

偉大なる本事業の遂行にあたっては郷土の先覚松村謙三翁を始め諸先輩・農林水産省・富山県・福光町・城端町そして施工業者各位の献身的な尽力に対し深甚なる謝意を表するものである 

この恩恵に支えられ全関係農家が一糸乱れぬ団結と互譲の精神を発揮してきた偉業を讃え無窮の繁栄を祈念するものである 

昭和五十三年九月

   小矢部川上流用水土地改良区

   立野原地区委員会

      事業概要

      1.総地区面積   五八五ヘクタール

      1.農地造成面積  四四二ヘクタール

      1.総事業費    三拾二億一阡萬円

      1.工事期間    着工 昭和四十五年 完工 昭和五十三年

      1.関係組合員数  八七六名          

⑦現在の状況  植栽に囲まれ綺麗に管理されている。

富山県

富山県南砺市・利賀村開拓

開拓記念碑
富山県の南西部に位置し、岐阜県に接する南砺(なんと)市(し)利賀村(とがむら)は、標高1000㍍を超える山々がそびえる、南北に細長い地形。村域の約9割が山林で、県内屈指の豪雪地帯でもある。
戦後、山村農業経営の樹立にあたり、水田造成を必要とし、山林が開拓地として開放された。8地区に計37戸の入植があった。だが、山肌に階段式に開墾した耕地は狭く、食糧の自給自足は困難を極めた。また、東西の交通は峠道が唯一の経路だった。
53(昭和28)年、「新農村建設計画樹立指定村」として、農林省(当時)の選定を受けた。利賀村開拓農協を設立。西側の地区では大規模な開田計画が立案された。かんがい用水を、村の東側を縦断している百瀬川から導くため、峠を貫く800㍍超の水路を掘る大工事を完成させた。歩道が併設され、村の東西が結ばれた。
その後の拡幅工事で自動車も通れるトンネルとなった。その西口に68年、記念碑が建立された。碑銘は「開拓記念碑」で、裏に碑文が刻んである。末尾には、「言うは易く行うは難し 総ゆる苦難に打ち勝った開拓者の強固なる団結心で夢の美田は完成 あゝうれしきかな同志相計り溢るる喜びと偉業を讃えこの碑を建立する」とある。
なお、トンネルは廃道(新トンネルが開通)となったが、路面地下に用水路があり、現在も使用されている。記念碑の左側には用水施設がある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

9月:富山・利賀村

利賀村開拓記念碑
①位 置 富山県南砺市利賀村(36.454819, 137.030251)
②設置者 利賀村開拓農業協同組合ほか
③設置日 昭和43年8月
④碑文表 開拓記念碑
     ○○長 宮崎博至書
⑤碑文裏 銘版上

「衣食足つて礼節を知る」これが人生の根本理念であり、斯くあらしめることを施策の要諦とする
郷土の実態に即応し不断の努力を払われて来たのであるが、時恰も昭和二十八年 農林省新農村建設計画指定村として発足するや左の地区でそれぞれ開拓計画を立案され利賀村開拓農業協同組合を設立野原久吉 宮崎博至 野原清治が組合長となり現在に至る。
記 地区名 代表者

開拓総面積二百四十町歩である
就中利賀、岩淵地区は百十二町歩で百瀬川を利賀川筋へ導入する大事業を完成今や全村自給自足更に供出する等安定農家が創設され当初目標は完成す
言うは易く行うは難し総ゆる苦難に打ち勝った開拓者の強固なる団結心で夢の美田は完成あゝうれしきかな同志相計り溢るる喜びと偉業を讃えこの碑を建立する

銘版下
開拓記念碑寄付者芳名(いろは順)
金十五萬円 利賀村開拓農業協同組合
以下個人名
側面 昭和四十八年八月建之
⑥記念碑の現在の立地状況
記念碑奥のトンネル(現在は廃道)の路面地下に用水路(現在も使用している。)があり、山向こうの百瀬川を利賀谷に導水している。記念碑左の建物は用水施設。

石川県

石川県加賀市の開拓地、予科練生らが開墾

開拓記念碑
石川県には、戦後の開拓事業で約1500戸が入植し、79の開拓農協が設立され、開墾と営農が行われた。
県西部の加賀市には、六つの開拓農協があった。航空自衛隊小松基地(前身は、戦時中に建設された「小松海軍航空基地」)が小松市にある。西隣が加賀市で、同基地に近い一(いっ)白(ぱく)町(まち)~新保(しんぼ)町(まち)の丘陵地は、パイロットを養成する「小松海軍航空隊」の広大な軍用地だった。その跡地を中心に、緊急開拓事業が実施された。
同地区には、二つの開拓地がある。

一白開拓地
入植者は、同航空隊の海軍飛行予科練習生(予科練生)が主体だった。終戦後、そのまま住み着き、開墾を始めた。1945(昭和20)~65年、23戸が入植。当初は、バレイショなどの畑作だった。60年、近郊の農家と共同で土地改良事業を実施し、翌年、水田の造成・かんがい用水施設の整備を終えた。

新保開拓地
45~49年、20戸が入植。土地改良事業で水田が造成された。水田地帯に、新保開拓農協(63年解散)が建立した記念碑がある=写真。碑銘は「開拓記念碑」で、碑文には「防風保安林ノ開拓に着手シ初メテ此地ニ水稲ノ植附ニ成功セリ」と記している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

10月:石川・加賀市

新保開拓記念碑
①位 置 石川県加賀市新保町(36.375396, 136.368470)
②設置者 新保開拓農業協同組合
③設置日 昭和33年(碑文風化にため推定)
④碑文表 開拓記念碑
昭和○十年十一月新保○○防風保安林の開拓に着手し○和○九年六月初○て此の地に水稲の植付に成功せり
開拓面積田畑五十○○○○和○三年○○○○○成式を行い此の碑を建つ
新保開拓農業協同組合
⑤碑文裏 なし
⑥記念碑の現在の立地状況
田園地帯であるが、面積の大半がゴルフ場に開発されている。

福井県

「開墾記念碑」 福井県大野市・塚原開拓地

「開墾記念碑」

福井県大野市・塚原開拓地

福井県東部の内陸部に位置し、石川県と岐阜県に接する大野市は日本有数の豪雪地帯で、人口は約3万1千人。総面積は8万7243㌶で、同県内の市町村の中では最も広く、その約85%を森林が占めている。戦前、同市富田地区(旧・大野郡富田村)の塚原区は広い原野だったが、戦後開拓事業で水田化された。

1945(昭和20)年11月、戦災者、引揚者、疎開者ら57戸、267名が塚原開拓地に入植した。入植地は標高200㍍で、土質は火山灰地で強酸性土壌だった。一戸当たりの面積は1町7反。入植者はその未墾地に、慣れぬ手で開拓の鍬を入れた。雑木林を切り開きながらの開墾は重労働だった。

開墾だけでは生活できないため、出稼ぎをする者が続出した。塚原開拓農協が県に陳情した結果、地区内の幹線道路や開拓水路の建設事業は、49年度から同開拓農協が請け負うこととなり、工事は開拓者が行った。

寒暖差が大きい内陸的な気候で、稲作には条件が良かったため、水田づくりにとりかかった。51年度以後の開拓水路は地区外にわたり、用水の問題は解決に向かった。しかし、開畑は手と鍬で行ったが、水田化は斜面を平面にする必要があり、容易なことではなかった。

開拓者と地元の増反者で「富田塚原土地改良区」を結成し、70余町歩の水田造成に着手。ブルドーザーなどの機械による造成を行い、55年度、7町余歩の開田に成功した。翌年度以降も順次、水田化が進められた。

現在、田畑が広がる農村地帯となっている。心安らぐ風景のなか、「富塚生活改善センター」の脇には開拓記念碑が建っている。碑銘は「開墾記念碑」。裏面の工程記録には、塚原第二開拓農協が6012月に建立したことが記されている。
ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年2月 福井・塚原

塚原開拓地 「開墾記念碑」

 

①調査日  2018年9月19

②所在  大野市富田

③地区の沿革  昭和2011月、戦災者、引揚者、疎開者ら57戸、267名が塚原開拓地に入植した。入植地は標高200米で、土質は火山灰地で強酸性土壌だった。一戸当たりの面積は1町7反。

④設置年月日  昭和3512

⑤設置者  塚原第二開拓組合

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開墾記念碑 通商産業大臣福田一書

⑧碑文(裏面)  工程記録

               起 工  昭和三十四年六月

        竣 工  仝 三十五年十二月

        完成反別 五十町歩

        施工主  塚原第二開拓組合

        施工者  大野市 山内五作

⑨現在の状況  富塚生活改善センターで管理されている。

福井県

福井県あわら市富津:富津開拓

私達のあしあとを
この悠久の大地に
福井県あわら市富津地区

福井県の北部、あわら市北潟・富津(とみつ)地区は石川県との境に位置し、日本海に面する標高50~70㍍の丘陵地帯。戦後開拓事業が行われたが、急傾斜地が多く、強酸性土壌で作付けが困難だった。
1945(昭和20)年11月、戦争被災者ら35戸が入植。北潟村(当時)の寺に分宿し、共同生活が始まった。金津町(同)に兵舎があり、その解体作業に従事した。材木を開拓地に運搬して、仮の共同住居「三角小屋」を建てた。
割り当てられた入植地に、開墾の一鍬一鍬を打ち込んだ。最初はジャガイモを作付けしたが、収穫量は少なかった。電灯架設工事に従事し、48年に完了。だが、同年6月、大地震が同県を中心に北陸を襲った(福井地震と命名)。開拓者たちは、復旧作業と開墾作業を進め、同年10月には富津開拓農協を結成した。
スイカやダイコン、茶などを栽培し、土壌に適した作物を模索した。やがて、サツマイモ栽培に集約化を図った。幾多の苦労を乗り越え、ブランド化に成功した「とみつ金時」は名産品となっている。
富津集落センター内に開拓記念碑がある。入植35周年を記念して81年に建立されたもので、「私達のあしあとをこの悠久の大地に」と刻まれている。傍らの碑銘板には、開拓の苦難が記されている。「地震風害に耐え 干魃は続くも土を愛し土に生きるもの等しく協同の旗の下に一致団結し 悠久なる大地の限りなき恵みを受け 明日に向かって歩みはつづく」とあり、懸命にこらえた強い気持ちが伝わってくる。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

4月:福井・冨津

・福井県あわら市富津:富津開拓
「私達のあしあとをこの悠久の大地に」 富津入植三十五周年記念
昭和56年11月1日建立 富津区
碑文
昭和二十年十一月南方眼下に湖を望む国有地七十余町歩の原野に三十五戸が開拓の鍬を打ち込み私たちの郷土は誕生した。小屋を結んで越冬した宅地を造り道路を開き、炎暑吹雪を衝(つ)き朝月夜星の開墾も自給への道遠きを嘆く。
電灯工事の完成で石油ランプに別れを惜しむ暇なく、共同作業場、集会所、大山神社の神殿建立と村造りは進む。
漬物加工、コナゴ漁に夢を託するも運営の困難さは言語に絶し、技未熟も加えて不成功に終わる。入植以来渇望久しい上水道の建設成り、谷川よりの水汲の労苦から解放され人人は歓聲をあげて喜ぶ。
ここに自らの手で体得した経験を蔬菜園芸に求め、時代の進展に即応した機械化営農が導入され農家経営に潤いをもたらす。
実に二十余年の歳月は流れる。地震風害に耐え干魃は続くも土を愛し土に生きるもの等しく協同の旗の下に一致団結し悠久大地なる限りなき恵みを受け明日に向かって歩みはつづく。
斯くして起伏に富んだ畑地は丘陵地開発にて、全形容を改め松林の原野は昔日の面影もなく永住の目的を達成した。ここに富津開拓農協の業務と使命は終わる。よく三十五年の風雪に堪えてその礎は築かれ、入植初代の人々の辛苦を偲び子々孫々の繁栄を願って、ここに記念碑を建立する。
昭和五十六年十一月一日 富津区
(注:句読点は協会で付与)

山梨県

山梨県北杜市・井出原開拓地

山梨県北杜市・井出原開拓地

「開拓之碑」
山梨県には戦後3500戸以上が入植したが、高冷地が多く、厳しい気象環境下だったので、定着率は低かった。最も入植者が多かったのは、県北西部の長野県境の北杜市(旧・北巨摩(きたこま)郡)の約1300戸。うち、八ヶ岳南麓に位置する井出原開拓地は、標高800~1200㍍の農用地としては不適格な不毛の未開地だった。
1945(昭和20)年から、引揚者・戦災者など約130戸が入植した。悪条件ばかりで開拓は困難を極めたが、入植者は助け合って第二の故郷の建設に取り組んだ。入植地区で各農協を構成し、石堂開拓農協や安都玉開拓農協など7つあったが、58年に合併して井出原開拓農協を結成。農畜産物の共販態勢の確立などを目指した。
冷災害に見舞われたことはしばしばで、経営状況が悪化した。道路の整備が開拓地の発展を促した。開拓者の強い団結と工夫により、高冷地農業の成果が上がるようになった。現在、レタスなどの高原野菜の栽培が盛んとなり、山岳・高原の観光地、保養地としても発展している。
同市大泉町(旧・大泉村)の石堂公民館の敷地内に石堂開拓の記念碑がある。石堂共有財産区が90年に建立したもので、碑銘は「開拓之碑」。側の碑銘板には「一世代の人々は厳しい自然条件や農業経験もなく又農機具も不備ななかで血の滲む様な努力により開墾を続けた 時の需要に応じ穀物酪農蔬菜栽培を行う傍ら農閑期には出稼ぎにより生計を立てた」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

5月:山梨・井出原

山梨県

山梨県小淵沢町大東豊区

山梨県小淵沢町大東豊区 「開拓之碑」
山梨県の北西部、長野県境の北杜市小淵沢町は交通の要衝で、JR中央本線と小海線の分岐点となる駅や、中央自動車道のインターチェンジがある。高原の観光地として、多方面から観光客が訪れる。同町北部の大東豊(だいとうほう)区(旧・北巨摩郡小淵沢村)は戦後開拓地で、大富、東和、豊畑の3地区から成り立っている。
同県では、八ヶ岳・富士山山麓などが開拓地に指定された。小淵沢開拓地は八ヶ岳の中腹に位置し、標高約1千㍍と高い。終戦直後の1945(昭和20)年9月から、戦災者、復員軍人・引揚者ら約90戸270人という大所帯が入植した。広い山麓のうち、271町歩が配分された。 仮設の小屋での生活が始まった。農業の経験者が少なかったため、入植者は長時間の労働を強いられた。冬は北風で寒さが厳しく、開墾作業ができず、出稼ぎに行った。
ライ麦、雑穀、豆類などの作付けを行った。開拓初期は、自分たちが食べるのに精一杯で、販売して現金収入を得ることはできなかった。 48年、4つあった帰農組合が合併して、小淵沢開拓農協を設立。50年に電気が導入されたが、全戸には配電が行き渡らなかった。飲料水が乏しい地域でもあった。そのため、離農者が多かった。しかし、残った人たちは、新しい農村の建設に情熱を燃やして努力した。 53年、八ヶ岳山麓が集約酪農地域として国の指定を受け、多くの開拓農家が乳牛を飼育するようになった。同開拓農協は、穀物栽培から、酪農と高冷地野菜栽培への転換を推進した。
64年に3部落がまとまり、大東豊区が成立した。翌年、水道の整備で断水の心配が解消され、生活は安定に向かった。
大東豊公民館の敷地内に、開拓記念碑がある。79年10月に建立されたもので、碑銘は「開拓之碑」。裏面には、各帰農組合の入植日、入植者数、氏名が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年10月山梨県小淵沢町大東豊区

長野県

「開拓の碑」 長野県高山村・福井原地区

「開拓の碑」

長野県高山村・福井原地区

長野県では戦後、ほぼ全域で緊急開拓事業が行われた。1945(昭和20)年から64年にかけて、490地区に6219戸が入植した(「開拓二十年史」66年発行)。

県の北東に位置し、群馬県と接する上高井郡高山村は人口が約6400人で、果樹を中心とした農業と温泉などの観光の村。戦前、標高750~800㍍の高冷地にある福井原地区は未開墾地だったが、村では唯一の戦後開拓地となった。

46年5月、地元農家の二、三男や海外引揚者ら14戸が入植した。赤松の伐採跡地だった。地区内には飲料水がなく、1㌔ほど離れた水源から、竹をつなぎ合わせて何とか引水した。

入植当初は不自由な幕舎生活だった。入植者は山菜を主食として、一鍬一鍬開墾した。冬期間は、炭焼き、山仕事に従事した。同年7月から翌年5月にかけて、新しい仲間が入ってきたが、将来に見切りをつけて離農する者も多かった。

48年、入植者全員の住居が完成し、電気も導入された。49年、個人の土地配分について協議し、一戸当たり一町七反の区分けが決定。53年には簡易水道の工事が行われ、翌年完了し、飲料水の心配はなくなった。営農形態は、陸稲、大豆からバレイショ、野菜になり、さらに酪農主体へと変化していった。84年には畑五町歩の基盤整備と農道の舗装を行い、大切な農地の有効利用を図った。

開拓地の農道沿いに、開拓記念碑がある。入植者が93(平成5)年8月に建立したもので、碑銘は「開拓の碑」。裏面には、碑文と入植者及び福井原二世会の氏名が刻まれている。

碑文の末尾には、「未開の松林を切り拓き、次代の私たちに永遠の恵を与えてくれた先代の幾多の苦難と忍耐、汗と努力に心から敬意と感謝を表すとともに、二度と戦争をしない決意をこめ、ここに記念碑を建立して、その偉大な功績を後世に語り継ぐものである」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年9月 長野・福井原

福井原地区 「開拓の碑」

 

①調査日  2018年5月28

②所在  上高井郡高山村

③地区の沿革  赤松伐採跡地に昭和2114名、22年に2名が入植

④設置年月日  平成5年8月

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  開拓の碑 長野県知事 吉村午良 書 

⑧碑文(裏面)  昭和二十年、第二次世界大戦後の混乱と不安の中で、食糧増産と自作農創設のために荒地や山林を切り拓き、全国各地で緊急開拓事業が行われた。

ここ福井原は、赤松伐採跡地に昭和二十一年に十四人、二十二年に二人が新しい生活を求めて入植し、開墾鍬による人力の開拓が行われた。青年達は一鍬一鍬に明日への希望を託して、まさに血と汗と涙の結晶の土地が生み出された。昭和二十三年には電機の導入、二十九年には簡易水道の工事が行われ、生活向上への努力がなされた。また、昭和五十九年には基盤整備と農道舗装が行われ、大切な農地の有効利用が図られている。

開拓が始められてから四十七年、この地も時代の変化とともに大きく変貌をとげたが、当時の開拓精神を受け継ぐ九世帯四十三人が現在もこの地を大切に守り発展させている。

未開の松林を切り拓き、次代の私たちに永遠の恵を与えてくれた先代の幾多の苦難と忍耐、汗と努力に心から経緯と感謝を表すとともに、二度と戦争をしない決意をこめ、ここに記念碑を建立して、その偉大な功績を後世に語り継ぐものである。

 一九九三年八月吉日 建之   入植者氏名  福井原二世会氏名

⑨現在の状況  地区内に建立され管理されている。

長野県

長野県安曇野市・豊里開拓地

演習地跡を開墾
長野県中央部の安曇野市穂高有明・豊里(とよさと)区は、JR大糸線穂高駅から西北約6㌔にあり、美しい田園風景が広がっている。同区は戦後開拓地で、開拓者によって開墾され、人が住み始めた。
同県には、1945(昭和20)年から64年までに6219戸が入植した。開拓地の多くは標高の高い場所にあり、やせた土壌など劣悪な土地条件だった。
豊里開拓地の前身は、旧・陸軍松本歩兵第50連隊の演習地(約170㌶)で、標高は約600㍍。45年、復員軍人、引揚者、疎開者ら76戸が入植した。農業には未経験者ばかりであり、肥料もなく、開墾と営農は並大抵の苦労ではなかった。当初、大豆の種などを撒いたが、収穫は少なかった。
土地は砂礫土で水の便も悪く、干害を受ける年が多かった。そのため、井戸を掘り開田、水稲植え付けをした。
豊里の交差点近くに開拓記念碑がある。豊里開拓記念碑建設委員会が76(昭和51)年に建立したもので、碑銘は「開拓記念碑」。傍には演習地跡の説明看板と碑誌、反対側には、井戸から高地の水田への配水に使用された送水ポンプがある(写真㊧屋根の下)。
碑誌には「昭和三十四年深井戸開田の気運が高まり豊里巾上土地改良区の設立を見て漸く生活安定の基礎が確立した」「ここに三十有余年に渉る同志の彫身の労苦をかえりみるとき無量の感慨きわまりなし 相共に努力した人々や今は亡き同志の功績を偲び本碑を建立する」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

7月:長野・豊里

(碑誌)
昭和二十年大東亜戦争終結の秋痛恨と傷心を秘め食糧増産の緊急要請に応えるべく吾々は長野補導部の主導により各地からこの地に参集した、烈々たる斗志の前に旧陸軍演習地はみるみる開墾されていった然し畑作農業の安定を期待することは容易なことではなかったとりわけ昭和三十年前後の数年は誠に苦難の連続で自衛隊演習場問題も起り多難であったが住民(当時七十六戸)の一致協力によりこれを克服することができた、昭和三十四年深井戸開田の気運が高まり豊里巾上土地改良区の設立を見て漸く生活安定の基礎が確立した、昭和四十年以降山麓開発の進展と共に穂高高原温泉郷の実現を見るに及んで俄然脚光を浴びるに至り名実共に豊里の村となったここに三十有余年に渉る同志の彫身の労苦をかへりみるとき無量の感慨きわまりなし相共に努力した人々や今は亡き同志の功績を偲び本碑を建立する
昭和五十一年十一月二十日
豊里開拓記念碑建設委員会
穂高町町長 高山 勇

入植者氏名(七十名 略)
協力者(十二名 略)

長野県

長野県軽井沢町・大日向開拓地

「開拓之礎」長野県軽井沢町・大日向開拓地
長野県の東部、群馬県境に位置する北佐久郡軽井沢町は標高900~1000㍍の高原の町で避暑地、別荘地として有名。同町の大日向(おおひなた)開拓地は、南佐久郡の旧・大日向村(現・佐久穂町大字大日向)から旧・満州(現・中国東北部)に開拓団として渡り、戦後に引き揚げた人たちが入植した地区である。
満州移民政策で、町村ごとに農民を送り出す「分村移民」が推進された。大日向村は1937(昭和12)年、分村移民を計画。約220戸約680人が満州吉林省に渡り、第二の大日向村をつくった。全国初の分村だった。しかし、45年の敗戦で、村民の生活は一変。逃避、引き揚げ中に食糧不足や寒さ、疫病などで多くの犠牲者が出た。
苦難を乗り越えて46年に帰国した人たちだったが、大日向村に住む場所はなかった。そのため、65戸168人は47年、浅間山麓の軽井沢町に入植。入植地を再び「大日向」と名付け、開拓を始めた。土地は払下げの国有林で、人力による森林伐採、一鍬一鍬の開墾は困難を極めた。 火山灰の砂礫が多い高冷地で、強酸性の土壌だった。肥料不足もあり、作物の生育は良くなかった。その上、冷害、霜害、浅間山噴火の被害など、農作物災害が多かった。開拓当初のジャガイモやソバの栽培から、酪農を取り入れ、やがては、キャベツやレタスなどの高原野菜の栽培へと変わっていった。他産業への転職も進んだ。
64(昭和39)年、大日向公民館の敷地の一角に、満州で没した374名と入植以来の15名の霊を祀る慰霊碑が建立された。碑銘は「開拓之礎」。裏面には、開拓遺歴と開拓団員名が刻まれている。開拓遺歴の末尾には、「三十九年九月一日皇太子殿下御一家の御来啓を賜る 団員総意により入植以来十五名の霊を合せて茲に謹んで慰霊碑の建立をなす」と記されている。
なお、同公民館には、「大日向開拓記念館」が併設されており、入植当時の農機具などを展示している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年9月長野県軽井沢町・大日向開拓地

長野県

「開拓記念碑」 長野県松川町・増野地区

「開拓記念碑」

長野県松川町・増野地区

長野県南部に位置する下伊那郡(しもいなぐん)の満州(現・中国東北部)への開拓移民は一万有余人に達し、全国で最も数が多い郡だった(「拓友」1989年発刊)。終戦後、大勢の引揚者を受け入れるには、郷土の既存の農耕地は狭かった。そのため、引揚者は緊急開拓事業により、再び未墾の原野に立ち向かわざるを得なかった。

標高700~850mの旧・大島村西山の村有林地と一部民有地の開放により、46(昭和21)年、満州引揚者を中心に25戸が入植。続いて、旧・山吹村増野(ましの)原(はら)の民有林と一部村有地の開放により、47年に30戸、48年に10戸、計40戸が入植した。両地区はそれぞれ、西山開拓農協、増野原開拓農協を設立。入植者は高冷地での様々な悪条件にも屈せず、開拓に精進した。

両農協が近接し、かつ、経営形態が類似していること等から、55年、合併に踏み切り、新たに里見開拓農協を設立。経営の協同化を図り、生産力の増進等を目指した。新農協の主体事業は果樹栽培だった。病害虫防除の必要性から、各地区に共同防除施設を導入したほか、共同選果場を設置して、果実の有利販売に努めた。

現・松川町大島の「増野自治会会所」の敷地内に記念碑がある。6511月に建立されたもので、碑銘は「開拓記念碑」。裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。碑文は「昭和二十二年緊急開拓地として増野原五十七町六反余の原野の開放を受け引揚者等三十戸入植 ここに全国開拓二十周年に当り記念碑を建立する」と記されている。

他の戦後開拓地では、厳しい環境条件等により、多くの離農者が出た。増野地区は、入植者が定着して果樹栽培を継続するなど、戦後開拓の成功例として知られている。

記念碑付近の広大な斜面に多くのリンゴ畑が点在し、眼下には南アルプス連峰が一望できる。近隣には、観光者向けのワイナリーがある。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年11月 長野・増野

増野地区 「開拓記念碑」

 

①調査日  2018年5月30

②所在  伊那郡松川町

③地区の沿革  昭和23年原野が解放され引揚者ら36戸が入植した。

④設置年月日  昭和4011

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開拓記念碑 長野県知事 西沢権一郎書

⑧碑文(裏面)  昭和二十三年緊急開拓地として増野原五十七町六反余の原野の開放を受け引揚者等三十六戸入植

ここに全国開拓二十周年当り記念碑を建立す

        昭和四十年十一月   入植者氏名

⑨現在の状況  地域の植栽の中で管理されている。 

岐阜県

「開拓記念碑」 岐阜県郡上市高鷲町ひるがの高原

「開拓記念碑」

岐阜県郡上市高鷲町ひるがの高原

岐阜県の北西部に位置する郡上市(ぐじょうし)高鷲町(たかすちょう)ひるがの高原(旧・郡上郡高鷲村蛭ヶ野高原)は、標高900~1000㍍の豪雪地帯。夏は避暑地として、秋は紅葉狩り、冬はスキーと、一年を通して観光客が訪れる。戦後、蛭ヶ野・上野(うわの)・(きっ)(たて)の三地区で、緊急開拓事業が実施された。

大日ヶ岳の火山活動でできた扇状地であり、かつては、荒れ地と湿地が広がっていた。各地での開拓は、蛭ヶ野が最初。1940(昭和15)年、郡上郡の青年の鍛錬場が開設され、満州(現・中国東北部)に開拓移民として送り出された。

第二次世界大戦が始まり、戦況が悪化すると、食糧確保のために開拓が進められた。終戦後、46年に満州から引き揚げてきた開拓団員や戦災者ら約100世帯が三地区に入植し、本格的な開拓が行われた。

開拓当初からの方針で、酪農を目指した。まずは、強酸性だった土壌を改良し、主食となる作物を育て、生活の安定を図った。53年にサイロ・堆肥舎施設を建設。54年から乳牛を導入し、本格的に酪農事業が始まった。

また、焼き畑で開墾を進めながら、夏季の冷涼な気象条件を活用して、夏出しダイコンの作付けも行われた。

現在、ひるがの高原では酪農が盛んなほか、ダイコンを中心とした高冷地野菜の一大産地となっている。

同高原を縦断している国道156号線わきの広場に記念碑がある。碑銘は「開拓記念碑」。旧・高鷲村が78年に建立したもので、裏面には碑文が刻まれている。

その後段には、「四通八達した道路網は単に開拓入植者のみならず既存集落住民も亦之を多目的に利用することとなり、高冷地営農の確立とともに観光産業振興の端緒ともなり、ここにかっての荒野は転じて沃野と化し天の恵み地の利を最高度に享受していることはまことに感慨無量である」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年5月 岐阜・ひるがの

ひるがの高原 「開拓記念碑」

 

①調査日  2021年4月21

②所在  郡上市高鷲町ひるがの高原

③地区の沿革  高鷲村大日山中腹の標高9001000米の蛭ケ野地区、上野地区、切立地区合わせて約千百七十八ヘクタールに及ぶ山林原野が土地保有者の協力で解放され入植。開拓先駆者の功を称え広く協力者に感謝を表した。

④設置年月日  昭和5310

⑤設置者  高鷲村

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開拓記念碑

⑧碑文(裏面)  碑文  第二次世界大戦による敗戦の結果は、日本国内の情勢を根底から変革させた。これに伴い終戦直後立法化された開拓五カ年計画が遂行され、わが高鷲村にもいち早く開拓地建設が強く要請された。幸いにして土地保有者の大乗的見地に立った協力により蛭ケ野地区約五百八ヘクタール、上野地区約四百四十ヘクタール、切立地区約二百三十ヘクタール、計約千百七十八ヘクタールに及ぶ山林原野が買収され、その大部分が新入植者に譲渡された。爾来山下寛治氏を中心とする開拓者の心境を傾注した努力と公共機関の指導力とが相俟って新集落の誕生を見るに至った。

特に四通八達した道路網は単に開拓入植者のみならず既存集落住民も亦之を多目的に利用することとなり、高冷地営農の確立とともに観光産業振興の端緒ともなり、ここにかっての荒野は転じて沃野と化し天の恵み地の利を最高度に享受していることはまことに感慨無量である。  ここに開拓先駆者の功を称え広く協力者に感謝を表し「開拓は地球を彫刻する最高の芸術である」の古諺を付して碑文とする。

  昭和五三年十月  高鷲村長 簑島政一

⑨現在の状況  地区内で管理されている。

静岡県

「開拓之碑」 静岡県富士開拓

「開拓之碑」

静岡県富士開拓

 

静岡県富士宮市の朝霧高原は、富士山の西麓に位置し、標高700~1000mのところにある。ここに富士開拓農協があり、酪農を中心に約40戸が営農している。

1946(昭和51)年1月、入植してきたのは、主に長野県下伊那郡大下條村(現阿南町)の、1525歳の若者たち130名。

今でこそ、日本有数の酪農地帯で、霊峰富士を望む観光地でもあるが、入植当初は他の開拓地に引けを取らない過酷な土地であった。

 この地は、終戦まで旧陸軍少年戦車兵学校の演習地として使用されていた。ここは、地元の人々も手を出さないやせた荒地で、富士山から流れ出た溶岩の岩盤がむき出しになっていて、「穀物は実らず、葉物は茂らず、根物は太らず」の時期が続いた。特に厳しかったのは、川が無いので水が手に入らず、屋根に降った雨を溜めてしのぐこともあった。

 伸び盛りの若者達の栄養状態はひどくなり、3班に分けて交代で故郷に帰って体力を回復させることにした。西富士にもう戻ってこないのではないかという心配をよそに、皆元気になって戻ってきて団結が深まった。

 開拓団には金が無かったので、自分たちで何でも作れるように、製塩部、製炭部、輸送部などを作り、開墾の他に別の仕事も分担して助け合った。

 54年にようやく国から高度集約酪農地域の指定を受けて、酪農が本格的に始まった。しかしまだ牛舎は無く、野草地での放牧が主体であった。この頃から個人住宅の建設も始まり、個人経営に移行していった。

 65年土地改良事業等により大規模な草地改良

が行われ、飼料基盤の整備や新しい施設の建設が進み、現在の酪農地域としての基盤が確立された。

 右の碑は、当農協が7611月、富士宮市人穴の西富士霊園内に、開拓30周年を記念して建立したもので、碑銘は「開拓之碑」。富士山と共に、今も続いている酪農大国を見守っている。

 

『霊峰富士を仰ぎ、南に駿河の海を望むこの地。ここに永住の地を求め、新天地を開拓せんと大志を抱き、三百余戸一団となり、昭和二十一年一月入植せり。

 この地もと北部六ヶ村の入会秣場なりしが、その後陸軍の演習場となり戦後解放されて開拓地となりしものなり。』

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年1月 静岡・富士

富士開拓 「開拓之碑」

 

①調査日 2017年1月 18

②所在  静岡県富士宮市人穴

③地区の沿革  陸軍少年戦車兵学校の演習地が1946年の緊急開拓事業で国営の開拓地として自作農家創設事業が開始され、長野県阿南町を中心とした1520歳の青年が分村計画に則り集団入植。国営事業を中核に開墾作業を共同生活で実施した時代であり、食料増産中心の農業を行うが「穀物は実らず、葉物は茂らず、根物は太らず」の厳しい時代である。畜産農家への転換を目指し、54年に国からジャージー牛250頭余りが導入され、酪農地帯としての第一歩を踏み出す。65年には大規模な草地の改良、飼糧基盤の整備や新しい施設の建設が進み、より生産性の高いホルスタイン種への移行と相まって現在の酪農地域としての基盤が確立される。この時期から経営の拡大を志向する農家が増加した半面、小規模農家の離農も目立ち始めた時代であった。80年代には国の事業で草地や施設の整備、高性能の大型機械の導入を行い酪農地域として名実共に発展した。

④設置年月日  昭和5111

⑤設置者  富士開拓農業協同組合

⑥碑名  入植30周年記念碑

⑦碑文(表面)  開拓之碑

⑧副碑(表面)  霊峰富士を仰ぎ 南に駿河の海を望むこの地 ここに永住の地を求め新天地を開拓せんと大志を抱き 三百余戸一団となり 昭和二十一年一月入植せり この地もと北部六ケ村の入会秣場なりしが その後陸軍の演習場となり戦後開放されて開拓地となりしものなり 元来地力弱く高冷地なれば不毛の原野として顧みざりし土地への入植に対し村人はひそかに事業の成功に危惧の念を抱けり入植当時は物資窮乏の折にて 開拓者の生活は筆舌に尽し難き苦難の連続にして 遂に前途に希望を捨て離脱する者さえ出でたり 然し踏止どまる者よくこの苦難に耐え 悪条件を克服し 次第に成果を挙げ 今や富士西麓の酪農は日本全国にその名聲を高むるに至れり 苦節三十年過ぎし苦難の道を顧み悲喜交々誠に感に堪えざるものあり 一同にここに碑を建ていささか由来を記し三十周年を記念する

 昭和五十一年十一月吉日

富士開拓農業協同組合

⑨現在の状況  西富士霊園内で管理されている。

愛知県

「本地ヶ原開拓記念碑」 愛知県尾張旭市南新町

「本地ヶ原開拓記念碑」

愛知県尾張旭市南新町

愛知県尾張旭市は尾張中部に位置し、北西部は名古屋市と接している。名古屋市の衛星都市として発展し、現在の人口は約8万3千人で、工業・商業が盛んである。国道363号線(瀬港線)沿いの本地ヶ原(ほんじがはら)地区には戦前、陸軍演習場があり、戦後、緊急開拓のための集団入植地となった。

1945(昭和20)年から63年にかけての本地ヶ原への総入植戸数は188戸、うち定着戸数は148戸。入植者は軍需工場等の工員60戸、軍人33戸、商人19戸、農家19戸などで、うち18戸は海外引揚者だった。48年に本地ヶ原開拓農協が発足した。

入植地は台地で水利が悪かった。土壌は強酸性だったため、入植初期は開墾とともに土壌改良が必要だった。開拓者は麦やサツマイモなどの畑作に励んだが、農業経験が浅かったこともあり、収穫は少なかった。

土壌改良資材の導入により、55年以降、10㌃当たり収量が既存農家並みとなった。野菜生産を増やし、特にスイカとハクサイは名古屋市などに出荷され、好評を博した。愛知用水が61年に通水し、水稲作も行われるようになった。

尾張旭市で唯一の集団農業地帯を形成していたが、後継者には他産業従事者が多かった。65年以降は住宅団地や工場などの建設により、農地転用が増加した。かつての農業地域の様相は次第に失われていった。

宅地や商業地としての開発が進み、現在、開拓地の面影はない。だが、開拓者の苦労や願いが忘れられないよう、本地ヶ原神社の鳥居の近くに開拓記念碑と開拓者慰霊碑が建立されている。記念碑は同開拓農協が66年に建立したもので、碑銘は「本地ヶ原開拓記念碑」。慰霊碑は02年、本地ヶ原連合実行組合によって建てられた。

記念碑の碑文の末尾には、「今 過ぎし日々を顧み 故人を偲び 無量の感懐なきを得ない ともあれ 相寄り 相援け合う 団結のみが最後の救いであったことを肝に銘じ 新たな意志を漲(みなぎ)らせ 開拓者一同の浄財を集めて ここに桑原愛知県知事の揮毫を得 この記念碑を建てる次第である」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年1月 愛知・本地ヶ原

「本地ヶ原開拓記念碑」

 

①調査日  2021年4月20

②所在  尾張旭市南新町中大田

③地区の沿革 昭和2011月に 軍用地が解放され、軍需工場の工員、軍事、復員者等150世帯が入植。入植地は台地で水利が悪く、土壌は強酸性だったため、土壌改良が必要だった。

④設置年月日  昭和411120

⑤設置者  本地ヶ原開拓農業協同組合

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  本地ヶ原開拓記念碑  愛知県知事 桑原 幹根 書

⑧碑文(裏面)  その日 昭和二十年十一月二十日 敗戦という未曽有の衝撃を受け 打ちのめされた悲運の中から 志を祖国再建 国土開発に樹て 全国各地よりこの地 本地ヶ原に集るもの百五十世帯 旧軍人あり 戦災者 復員者 離職者等 多彩な顔ぶれをもって緊急開拓措置法に基づき 不退転の決意を胸に 最初の鍬を打ち下したのである 爾来 雨に泣き風に苦しみ営々と力めてやまず 星霜二十年 田は稔り畑は豊かに輝き 昔の面影は何處にも見當らない 然し乍ら この間 伊勢湾台風を初め 自然の猛威に耐え 危機の数々を幾度か潜り抜け 曲折はあったものゝ 問題は悉く解決を告げた 今 過ぎし日々を顧み 故人を偲び 無量の感懐なきを得ない ともあれ相寄り 相援け合う 団結のみが最後の救いであつたことを肝に銘じ 新たな意志を漲らせ 開拓者一同の浄財を集めて こゝに桑原愛知県知事の揮毫を得てこの記念碑を建てる次第である / 昭和四十一年十一月二十日建立  本地ヶ原開拓農業協同組合  下段に入植者氏名

⑨現在の状況  本地ケ原神社前で管理されている。

愛知県

「土に挑む男」 愛知県豊橋市天伯原開拓記念像

「土に挑む男」

愛知県豊橋市天伯原開拓記念像

愛知県豊橋市は県南東部に位置し、南は太平洋に面している。東三河地方の経済・交通の中心で、人口は約37万人。市内を流れる豊川からの用水と温暖な気候に恵まれ、農畜産業が盛んに行われている。戦後、15の地区で開拓事業が進められた。

同市南部の天(てん)伯町(ぱくちょう)天伯原地区は広大な台地で、1945(昭和20)年、復員軍人・戦災者ら200戸余りが入植した。明治時代から長い間、陸軍の演習地であったため、軍馬や兵隊に踏み固められた土地だった。機械がない開拓当初は、鍬(くわ)による手作業で苦労して開墾が行われた。加えて、土壌は強酸性で栄養分が乏しく、水利条件も悪かった。

入植者は、48年に天伯原開拓農協を設立して解決にあたった。営農は、麦・サツマイモの栽培から、野菜作へと移行していった。68年に豊川用水が完成し、通水により水不足は解消された。

現在、キャベツやトマトなど、露地や施設での野菜栽培が盛んである。

同町豊栄の天伯山神社の敷地内に、「土に挑む男」の像が建っている。同開拓農協の組合員一同が、開拓30周年を記念して、7512月に建立したもの。鍬で荒野を切り開いた開拓者の姿を表している。台座の裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。

碑文の中段には、「昭和二十年十一月五日旧陸軍演習場であったこの天伯原の荒野に、自作農創設の夢を抱いた弐百余戸の開拓者が入植した 爾来風雪三十年 無から有を生み出す開拓農民の筆舌につくせぬ労苦は、汗と涙の尊い軌跡と足らざるを補い合う協同の成果に 美しい同志愛の事績を遺し、あらゆる艱難辛苦に耐えた者のみが知る喜びと緑なす沃野によって報われた」と記されている。

同神社の境内には「豊橋市開拓記念館」もある。開拓35周年を記念して8010月に建設された。館内には、開拓当時の農耕具や生活用具、写真などが収められている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年7月 愛知・天伯原

天伯原開拓記念像 「土に挑む男」

 

①調査日  2021年4月19

②所在  豊橋市天伯町

③地区の沿革  昭和2011月に解放された旧陸軍演習場に二百余戸が入植した。

④設置年月日  昭和5012

⑤設置者  旧天伯原開拓農業協同組合 組合員

⑥碑名  開拓30周年記念碑

⑦碑文(表面)  土に挑む男

⑧碑文(裏面)  昭和二十年八月十五日、長く苦しかった太平洋戦争が終わったとき、国土と人心は荒れ果て、食糧不足もまたその極みにあった よって 国は食糧増産と人口収容力の拡大をめざし、緊急開拓事業実施要領を施行した / かくして、昭和二十年十一月五日旧陸軍演習場であったこの天伯原の荒野に、自作農創設の夢を抱いた弐百余戸の開拓者が入植した/爾来風雪三十年 無から有を生み出す開拓農民の筆舌につくせぬ苦労は、汗と涙の尊い軌跡と足らざるを補い合う協同の成果に 美しい同志愛の事績を遺し、あらゆる艱難辛苦に耐えた者のみが知る喜びと縁なす沃野によって報われた / この不撓不屈の開拓精神と強固な団結の隂にいまは亡き三十数名の先人の遺風も忘れてはならない / 我々はここに開拓三十年を記念して、その由来を後世に伝えるためこの像を建てる

昭和五十年十二月吉日  旧天伯原開拓農業協同組合 組合員一同 / 126名の氏名

⑨現在の状況  天白山神社内で管理されている。

近畿地方

滋賀県

青野の郷 開拓記念碑

「青野の郷」

滋賀県東近江市青野町・青野開拓

滋賀県の東部に位置する東近江市は三重県に接し、愛知(えち)川に沿って琵琶湖東岸まで東西に長い。05(平成17)年、八日市市、神崎郡永源寺町・五個荘町、愛知郡愛東町・湖東町が合併して発足。永源寺町の一部を分離し、青野町を設置した。鈴鹿山麓にある同町は、ダム建設に伴う入植移住者が切り開いた。

八日市市の陸軍飛行場跡をはじめ、永源寺町、愛東町などに属する平地林は、国の緊急食糧増産対策により、開拓地に設定された。46(昭和21)11月、開拓計画に基づき、先発隊がまず八日市地区の測量を行い、翌年から入植が始まった。

併行して、愛知川の上流に農業用水国営愛知川ダムの建設が計画された。永源寺町の三地区が水没するため、住民213戸のうち何十戸かは、同町青野玉緒地区に入植移住することとなった。

第一次の入植は57年で、翌年、青野開拓地の入植起工式が行われた。その後第二次、第三次と続き、合計90戸余が入植した。農地配分は1戸当たり約0.8㌶。57年に県が約5㌶を重機で整地し、稲の作付けができる運びとなった。だが、地質は強酸性の瘠せ地。入植者は山深き谷間から下山した人々で、畑作の経験しかなく、水田の肥培管理は苦労が多かった。

開墾が進み、区画された圃(ほ)場が拡がっていった。宅地化も進み、移り住む一般人が多くなった。現在の青野町の世帯数は約200、人口は約570人となっている。

三重県に通じる国道421号線沿いの多目的集会場の広場内に、記念碑がある。青野町自治会が07年に建立したもので、碑銘は「青野の郷」。隣の副碑には「青野町誕生の歩み」が刻まれている。

中段に「当時の開墾には機械の導入も少なく、人力、牛馬の力にて開墾が行われ、先代の方々は毎日汗と泥にまみれ大変な苦労をされ、現在の青野の基礎を築かれた」、末尾に「ダム建設に伴う入植から五十年となるこの期に、先代の方々への感謝の気持ちと、この歴史を次代の子孫に伝えるため茲に記念碑を建立し、顕彰するものである」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年2月 滋賀 青野

青野の郷 開拓記念碑

 

①所在  滋賀県東近江市青野町

②設置年月日  平成1910

③設置者  青野町自治会

④碑名  開拓碑

⑤碑文(表面)  青野の郷 東近江市長 中村 功一 揮毫

⑥副碑(表面)  青野町誕生の歩み 

鈴鹿山麓の裾野に開けたこの地青野は、永源寺ダム建設に伴い水没する旧永源寺町、佐目、九居瀬、萱尾の三地区が入植移住した地である。

昭和三十三年には青野開拓地の入植起工式が行われ、第一次による原野の開墾が始められた。その後、第二次、第三次入植が行われ、入植者による開墾が進められた。当時の開墾には機械の導入も少なく、人力、牛馬の力にて開墾が行われ、先代の方々は毎日汗と泥にまみれ大変な苦労をされ、現在の青野の基礎を築かれた。今、我々は尊い汗の結晶のこの地に感謝し、愛着を持って先代の方々の意思を次代に引継がなければならない。

顧みるとダム建設により入植移住した戸数は当初九十戸余であったが、昭和三十五年には青野住宅が建設され、その後平成二年には青野ニュータウンが開発された。戸数も百五十戸余に増えたが、各地区別の自治会として活動されていた。平成十五年各自治会が話合いの上、青野自治会が発足した。

平成十八年には市当局のご尽力と深いご理解により「青野町」が誕生した。併せてダム建設に伴う入植から五十年になるこの期に、先代の方々への感謝の気持ちと、この歴史を次代の子孫に伝えるため茲に記念碑を建立し、顕彰するものである。

平成十九年十月吉日                             青野町自治会

⑦現在の状況  青野多目的集会場広場で管理されている。

滋賀県

滋賀県安雲川町・泰山寺野開拓

滋賀県安雲川町・泰山寺野開拓
滋賀県は中央部に琵琶湖と近江盆地があり、周囲を山脈・山地が取り囲んでいる。戦後、湖を囲むように46の地区で開拓事業が進められた。
北西部の高島市安雲川町(あどがわちょう)の泰山寺野(たいさんじの)開拓地には、入植者によって開墾された広大な畑が拡がっている。
1949(昭和24)年から52年にかけて、地元の引揚者、二、三男及び長野県から計20戸が入植した。標高約200㍍の扇状大地。雑木や針葉樹が密集していた。マツの木の抜根をともなう開墾作業は大変で、開畑はなかなか進まなかった。
水田作には向かない土地だったため、ナタネやスイカを播種。54年には、みの早生ダイコンを試作した。立派なダイコンがとれ、翌年には作付面積も増え、大津市場や京都市場に出荷できるようになった。農道の整備や水利施設の建設なども次第に進んだ。現在、名産品となっているダイコンをはじめ、高原野菜が広く栽培されている。
集落内の農業用倉庫の近くに開拓記念碑がある。77(昭和52)年に泰山寺野開拓農協が建立したもので、碑銘は「開魂」。裏面には「言語に絶する幾多の苦難も開拓精神と協同の力によって克服し 日と共に発展拡充の度を加え 総面積五十ヘクタールの広大な畑作用地を完成し 二十戸の豊かな明るい農村が誕生した」と記し、入植者の氏名が刻まれている。

・滋賀県高島市安曇川町:泰山寺野開拓
「開魂」 昭和52年5月 泰山寺野開拓農業協同組合

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2月:滋賀・泰山寺野

碑文
昭和二十四年十月食糧増産の国策によって泰山寺野開拓事業は発足した。当初の入植者は新しい村落建設の意欲に燃えて泰山寺野山林と原野の開墾に努め以来入植者は協同と隣人愛をモットーとして村づくりを進めた。その間言語に絶する幾多の苦難も開拓精神と協同の力によって克服し、日と共に発展拡充の度を加え、総面積五十ヘクタールの広大な畑作用地を完成し、二十戸の豊かな明るい農村が誕生した。
今日迄苦労を共にした同志相寄り茲に開拓記念碑を建立す。

昭和五十二年五月
泰山寺野開拓農業協同組合
入植者氏名 二十名(略)

京都市

京都市北区・原谷地域

京都市北区・原谷地域
都市近郊でも戦後開拓事業が行われた。京都府の26の開拓地のうち、京都市の北区大北山原谷(はらだに)地区は平均標高220㍍の山間盆地。名刹「金閣寺」の北西、約2㌔に位置する。
1948(昭和23)年、中国の東北部・満州開拓からの引揚者19戸が原谷の原野に入植した。同年、洛北(らくほく)開拓農協が設立され、開拓計画を策定した。野菜栽培を計画の柱として開墾したが、土壌は強い酸性重粘土で有機物に乏しく、作物が育たず、苦心が続いた。平行して乳牛・鶏の導入が実施された。
市内だが、開拓当初は電気が通じておらず、ランプ生活だった。50年に京都府の失業対策事業で農道、水路などの建設事業が開始され、同年、ようやく電気が開通した。入植者の団結は堅く、土壌改良を重ね、50年代に農地が完成。酪農・養鶏も本格化した。
失業対策事業は62年まで行われ、開拓地は整備された。環境の改善により、一般の人たちが引っ越してきた。次第に農業を止め、農地を手放し、転業する動きが進んだ。
平成に入ると、市中心部のベッドタウン化し、入植60年目の2008年、開拓農協は解散。敷地は、原谷地域の更なる発展を願い、市に寄附された。
市は10年、その土地に「原谷中央公園」を開園した。公園奥に開拓記念碑「開拓魂」がある。63年の入植15周年記念に建立されたもので、裏面には、入植者全員の氏名が記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

3月:京都・原谷

京都府京都市:洛北開拓地区
「開拓魂」農林大臣赤城宗徳書
昭和38年11月吉祥日建立 15周年記念

〇 碑文
拾五周年を記念して入植者の名を録す
三十八名(氏名略)
昭和三十八年十一月吉祥日建立

パネル説明文
昭和二十三年十月十二日、中国(旧満州)より引揚者十九戸が原谷原野に入植した。
『京都府原谷開拓地』として、開拓総面積五十五ヘクタールを拓き、原谷地区内の町づくりを完成させた。
その年、洛北開拓農業協同組合を設立し、総面積三・六ヘクタールの不動産を所有していたが、平成二十年七月十八日、入植以来六十年を期して解散した。
原谷地域の更なる発展を願い、当該地(原谷中央公園)を、京都市に寄附する事に決した。
記念碑『開拓魂』は入植十五周年記念に建立。碑表面は赤城宗徳農林大臣の揮毫である。碑裏面入植者全員の氏名が記されている。
(パネル説明)(原谷中央公園)
地区の所在と沿革(洛北農協40年記念誌より)

この地区は京都市の西北隅、衣笠山に面する一盆地、市電西大路路線金閣寺前停留所の西北方へ約2粁いわゆる名称金閣寺の裏山に位置している。
標高 海抜280米から160米(平均220米)
開拓地の面積
総面積   55町4反
畑     30町1反
宅地    1町5反
導水路   5町5反
薪炭採草地 18町3反
入植者数  18戸  増反者数 1戸
入植者1戸当  畑 1町2反、 薪炭林 8反5畝 宅地180坪
             増反者1戸当  畑 2反
洛北開拓農業協同組合は昭和23年11月に設立、平成20年解散。

兵庫県

兵庫県三田市・旭開拓地

「開拓碑」「旭魂」 兵庫県三田市・旭開拓地
兵庫県南東部の三田市は、六甲山地の北側に位置し、神戸市と接している。人口は約11万人で、豊かな自然が残る田園都市である。戦後、7ヵ所の開拓地に開拓農協が設立された。そのうち、西北部の旭開拓地は、標高平均約190㍍の丘陵地帯にある。
有馬郡本庄村(現・三田市)にあった帝国飛行協会兵庫県第四滑空場(長坂滑空場、格納庫)が戦後、払い下げられた。藍村(同)にあった軍需工場に配属されていた隊員が中心となり、農工隊を組織し、45(昭和20)年10月、鍬入れを行った。46年に主として復員者、47年に満州開拓引揚者が入植し、合計31戸となった。
49年、旭開拓農協が設立された。入植地は89㌶に及ぶ緩傾斜の山林跡地で、56㌶の開畑を行った。当初は自家用野菜の他、換金作物として麦やナタネ、タバコなどを栽培したが、地力が無いため、安定した収入は得られなかった。酪農を取り入れ、堆肥の投入などで瘠せ地が沃土(よくど)となった。
丘陵地で水資源に恵まれなかったが、54年に水利権の割愛を受けた。国費による建設工事で、ため池の拡張、水田造成を行い、稲作を導入したことにより、生活が安定してきた。
近くには、舞鶴若狭自動車道三田西インターチェンジがある。京阪神の大消費地を控え、水稲の他、酪農、肉用牛など多角的な営農を続けていける地区である。
65年、旭開拓農協は入植25周年を記念して、旭神社の敷地内に記念碑を建立した。自然石に彫られた碑銘は「開拓碑」(写真㊤)。脇の碑文石碑には「内に烈々たる開拓精神と外に不退転の決意を秘めて朝に星を戴き夕に月をふみ乏しき衣食に堪え日夜開墾に従事せり」と記されている。記念碑の隣に95年、入植50周年記念碑が建立された(同㊦)。碑銘は「旭魂」で、裏面には入植者、物故者の氏名が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2020年11月兵庫県三田市・旭開拓地

入植二十五周年記念碑碑文
碑  文
昭和二十年十月六日敗戦に伴う混迷と虚脱の中旧陸軍官庁の有志十八名は緊急食糧増産の使命を擔ひ地元本庄村役場の暖かき援助の下に此の地に開拓の鍬入れを行い引続き翌二十二年三月満州開拓団の同志十三名を迎え内に烈々たる開拓精神と外に不退転の決意を秘めて朝に星を戴き夕に月をふみ乏しき衣食に堪え日夜開墾に従事せり其の間離脱する者参加する者等幾多の変遷を経て脊薄なる耕土を沃土と化せしめたるは偏に酪農を主幹とせる営農経営の確立であった二十九年三月下流西野上地区住民の我等多年の懇望に應えた御理解により水利権の割愛を得又地元用地関係者の方々の絶大なる御援助等により国費による溜池拡張と水田造成なるや連年旱魃による作況の不安定は解消せられ総面積五十五町歩の全地区開拓事業は入植以来の困苦欠乏と幾多の試練にもめげず組合員協力一致鉄桶の団結の下に完成せり我等は更に近隣住民との調和に心を致し関係諸機関とも密接なる連繁を旨とし共存共栄の実を挙げん事を期すると共に慈に本開拓地の由来を記し碑を建立して永く子孫に伝え我等国土報恩の趣旨を解明して記念せんとす

昭和四十五年十月吉日

旭開拓農業協同組合組合員一同

兵庫県

兵庫県小野市・草加野開拓地

兵庫県小野市・草加野開拓地
兵庫県の中南部に位置する小野市は、北播磨の中心都市で人口約5万人。多くの企業が本社・事務所を置いている。農業は水稲を中心とする耕種と酪農や養鶏などの畜産がバランス良く営まれている。戦後、県内でも開拓地が集中した地域であり、開拓農協が6組合設置された。
開拓地のうち、東部の草加野(そうかの)地区は現在の大開(だいかい)町に位置する扇状台地だった。用水難のある原野に、1946(昭和21)年から47年にかけて、旧満州からの帰還者ら40戸余りが入植した。
48年、草加野開拓農協設立。米の配給が少なく、生産を目指したが、高原で水源に乏しかった。手作業で開墾した畑にサツマイモやジャガイモなどを作付けし、主食とした。また、旱魃に強い葉タバコの作付けの許可が出て、貴重な現金収入源となった。
食料と水の苦労が続いた。国営事業として51年に完成した「東条ダム」(東条湖鴨川ダム)の水を開拓地に揚水する計画が、55年に採択された。58年、揚水ポンプが始動し、初めて水稲の作付けを行った。ようやく耕地は水田化され、生活は安定するようになった。
60年、開拓農協は入植15周年を記念して、開拓神社と記念碑を建立した。境内にある記念碑の碑銘は「開拓碑」。
下部の碑文には「宿望の水田化は、昭和三十一年着工、同三十三年六月東條ダムの揚水に成功し、今や三十余町歩の美田を見る。かくて他方、乳牛飼育、煙草耕作と相俟って、漸く生活の基盤を築く。これ一つに、我等の親和と協力による開拓精神の象徴である」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

5月:兵庫・草加野

・碑文記載内容
(前面上部)

※阪本 勝:当時の兵庫県知事(記念碑題字を揮毫した。)

(前面下部 ・ 縦書き)
滿洲浜江省北二屯を引揚げた、養父郡出身の吾々は、昭和二十一年二月十一日、こゝ草加野の地に一鍬を下す。
爾来十有五年、食糧難に耐え、生活苦と斗ひつヽ、自らの手で住居を構え、道路を拓き、耕地七十余町上歩を算す。
而して、宿望の水田化は、昭和三十一年着工、仝三十三年六月東條ダムの揚水に成功し、今や三十町歩の美田を見る。
かくて他方、乳牛飼育、煙草耕作と相俟って、漸く生活の基盤を築く。
これ一つに、我等の親和と協力による開拓精神の象徴である。依ってこゝに記念碑を建て、過去を偲ぶと共に將来の戒とする。

昭和三十五年 三月
草加野開拓農業協同組合


当該地区の沿革等
草加野開拓は、民有と一部村有の原野が戦後国の緊急開拓政策により買収され、満州よりた引揚げた満州国浜江省東興県北二屯第9次養父開拓団の団員とその縁故者で構成された40数戸が入植してきたことに始まる。それ以降の沿革は、次の表のとおりである。

S21.12 第1次入植20名。
S22. 2 第2次入植28名。
S23.12 草加野開拓農業協同組合設立。
S33. 3 草加野万勝寺水利組合結成。
S33. 6 東条ダムより揚水成功。
S35. 5 入植15周年を記念し、開拓神社と記念碑を建立。
S35. 7 小野市開拓組合合同事務所新設。(市内6組合合同)
S40.12 入植20周年記念式典開催。『沿革誌』(【2】)発行。
S50.12 草加野開拓農業協同組合解散式開催。
S51. 『解散誌』(【3】)発行。
H 2. 4 草加野開拓農業協同組合解散。

沿革を作成するにあたって、県開連と小野市立図書館に保管されていた文献より引用した。

兵庫県

「鶉野開拓記念碑」 兵庫県加西市鶉野町

「鶉野開拓記念碑」

兵庫県加西市鶉野町

兵庫県は、北は日本海、南は瀬戸内海に接し、中央には高い山々がある。戦後開拓地は瀬戸内海側に集中的に分布し、標高300㍍以下の地区が多いが、水利条件には恵まれなかった。県南部の加西市は、播磨平野のほぼ中央に位置し、西は姫路市、南は加古川市と接している。人口は約4万人。山林、農用地(田、畑)がそれぞれ総面積の約4割、約2割を占めている。同市には戦後、開拓農協が3組合設立された。

同市南部の鶉野町(うずらのちょう)(旧・加西郡加西町)には戦時中、姫路海軍航空隊鶉野飛行場(以下「鶉野飛行場」)があった。1945(昭和20)年、緊急開拓事業により、県は鶉野飛行場跡の開拓を決定。同年より戦災者、海外引揚者、復員者ら約100戸が入植した。

48年9月、鶉野開拓農協を設立。飛行場建設時に地面を固めており、開墾が困難だった。入植者は開墾・営農に努めたが、土質は強酸性で有機質も乏しく、苦労が続いた。入植者は四散し、5年間で約50戸となった。

63年からの第2次振興対策(開拓営農新振興対策)に基づいて、酪農及び中小家畜を主体とした経営に取り組むことにより、営農も次第に安定してきた。だが、企業の工場進出の増加に伴い、第二種兼業農家(兼業所得の方が農業所得よりも多い)に変わっていく者も増えた。同開拓農協は72年2月に解散した。

鶉野中町公民館駐車場敷地内に開拓記念碑がある。03年7月、鶉野開拓記念碑建立委員会によって建てられた。碑銘は「鶉野開拓記念碑」(写真)。下部には、入植した組合員とその家族等46人の氏名が刻字されている。

裏面には組合の沿革や歴代組合長名などが記されている。碑文の末尾には「鶉野中町開村五十九年にあたり、先輩諸氏、及び組合員の家族の功績と努力を称えると共に地区のますますの発展と子孫繁栄を祈念しここに記念碑を建立する」と刻まれている。

周辺は平坦で、鶉野飛行場滑走路跡があるほか、家屋や工場が広い畑の中に点在している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年8月 兵庫・鶉野

「鶉野開拓記念碑」

 

①調査日  2017年4月12

②所在  加西市鶉野町

③地区の沿革  海軍の航空隊基地が解放され、残留海軍部隊を中心とした農耕に従事する地元増反者の他、戦災者、引揚者及び復員者が昭和20年に集団入植する。入植者は当初約100戸に上ったが5年間で四散し約50戸となった。

④設置年月日  平成15年7月

⑤設置者  鶉野開拓記念碑建立委員会

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  鶉野開拓記念碑  鶉野開拓農業協同組合 46入植者氏名

⑧碑文(裏面)  沿 革  元姫路海軍航空隊用地を開拓財産に所管換えを受け、昭和二十年より開拓事業として開田及び開畑の開墾を行ってきたのである。終戦と同時に残留海軍部隊を中心に農耕に従事する増反者、戦災者、海外引揚者及び復員者が逐次に入植する、昭和二十三年九月一日鶉野開拓農業協同組合を設立し、開拓に従事して営農に努めていた。

第二次振興対策事業に基づいて酪農及び中小家畜を主体とした経営に取組むことにより営農もしだいに安定すると共に、組合の運営も良くなってきたが本地区に工場の進出が目立ってくるにしたがい第二種兼業農家に変わって行く者も増加してきたので開拓営農総合調整事業の指導の下で昭和四十七年二月二十九日鶉野開拓農業協同組合解散の認可を得て解散し、昭和五十二年六月九日鶉野開拓農業協同組合の精算を完了したのである。

鶉野中町開村五十九年にあたり、先輩諸氏、及び組合員の家族の功績と努力を称えると 共に地区のますますの発展と子孫繁栄を祈念しここに記念碑を建立する。   歴代7組合長氏名 5開拓組合精算人氏名   平成十五年七月吉日    鶉野開拓記念碑建立委員会

⑨現在の状況  鶉野中公会堂裏手駐車場内で管理されている。

三重県

三重県鈴鹿市 ・ 玉垣地区

三重県鈴鹿市・玉垣地区
三重県北部の鈴鹿市は、北の四日市市と南の津市の間に位置し 、東は伊勢湾に面している。 人口約20万人の工業都市で、23の地区から成る。戦前は陸軍、海軍の軍事基地及び軍需工場が数多く建設された。戦後の緊急開拓事業により、軍用地跡に開拓者が入植した。

陸軍、海軍とも 施設は航空関連が中心だった。市北部の深伊沢地区には、陸軍の北伊勢飛行場と追分飛行場があった。航空隊の搭乗員の養成が主な目的だった 。1948(昭和23)年から、56 戸が入植し、開墾。現在、戸数は少なくなったが、酪農などが営まれている( 本紙658号で紹介 )。

市東部の玉垣地区には、鈴鹿海軍航空基地があった。航空隊飛行練習生の練習飛行場として建設されたが、戦争末期には実戦部隊の基地となった。 46 年から 入植した開拓者は、その地を開墾し、畑作物を栽培したが、なかなか売れるものができなかった 。
現在、 国道 号線や近鉄名古屋線などが通り、交通の要衝となっている。 電気 や 食品 関係の大きな工場 、大型スーパー などがあり、 工業地域と住居地域が混在している。

同地区の南玉垣町の住宅地の 道路沿いに 、石碑 がある。86年に暁(あかつき)自治会と暁町土地改良区が建立したもので 、「 暁之碑 」と刻まれている 。
裏面には、上端に「 鈴鹿開拓入植と暁町発祥の地 」とある。続く碑文には 、「この地は太平洋戦争終了後の昭和21年2月(西暦1946年)緊急食糧増産の担い手として鈴鹿開拓団を結成し60余戸が旧鈴鹿海軍航空隊飛行場跡に開拓の鍬を下し 、 新しい郷土建設の願い
をこめて 、暁町と命名し今日にいたる。これを子々孫々に伝えるため 、入植40周年を記念してこの碑を建立した」と記されている。

〇三重県 鈴鹿市 南玉垣町地区
鈴鹿市南玉垣町の富士電機工場の近く、ダイニングとしかわの隣に「暁之碑」として建立。住宅地の外れである。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

3月:三重・鈴鹿

鈴鹿開拓入植と暁町発祥の地
この地は太平洋戦争終了後の昭和21年2月(西暦1946年)緊急食糧増産の担い手として鈴鹿開拓団を結成し60余戸が旧鈴鹿海軍航空隊飛行場跡に開拓の鍬を下し、新らしい郷土建設の願いをこめて、暁町と命名し今日にいたる。
これを子々孫々に伝えるため入植40周年を記念してこの碑を建立した。
昭和61年2月11日
暁土地改良区
暁町自治会 協賛者 略(23名)

三重県

三重県亀山市・能褒野開拓

三重県亀山市・能褒野開拓

 

三重県亀山市の能褒(のぼ)野(の)開拓は、三重県の北部で、古墳が多く発見されている地域にある。

この地に「古事記」や「日本書紀」に登場するヤマトタケルノミコトの墓とされる「能褒野王塚古墳」がある。ヤマトタケルノミコトは、東国遠征の帰還途中に「伊勢国能褒野」で病死したとされる。

この古墳は4世紀後半築造とみられ、全長90㍍、高さ9㍍の規模で、この地域最大の前方後円墳だ。平安時代以降、ヤマトタケルノミコトの墓の所在地は不明となっていたが、1879(明治12)年に内務省によってヤマトタケルノミコトの墓であると定められ、今日でも宮内庁により管理されている。

太平洋戦争時はここに、パイロットを育てるための北伊勢陸軍飛行場があった。戦局が悪化してくると、特攻隊員を育てる訓練場となっていった。

古代から昭和に至るまで、様々な時代の流れを観てきたこの地に開拓者が入植したのが46年。海外からの引き揚げ者や元軍人など100名が、約2・27平方㌖の飛行場跡地の開墾に当たった。

能褒野や隣りの鈴鹿市北西部の土壌は「黒ぼく土」と呼ばれ、酸性土壌で保水性や排水性に富み、肥料持ちが良く、植木やお茶の生産に適していた。

64年の東京オリンピックを契機に植木の需要が大いに高まり、三重サツキやツツジの生産が急速に増えていった。現在では、植木全般において、全国屈指の生産地としての一角を占めている。

また、この地域は工場地帯でもあり、開拓地の一部は企業の工場などに変貌を遂げている。

87年1月、開拓40周年として開拓記念碑(写真)が、能褒野公民館敷地内に建てられた。碑文の一部には「ヤマトタケルノミコト伝承の地で国家緊急開拓事業の責務の一端を果たし、全国優秀開拓団の栄誉を得た」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年9月 三重・能褒野

三重県亀山市・能褒野開拓

 

①調査日  2019年6月26

②所在  亀山市能褒野町

③地区の沿革  昭和21年旧陸軍飛行場跡地が解放され、引揚者ら100名が入植した。

④設置年月日  昭和62年1月17

⑤設置者  入植者

⑥碑名  入植40周年記念碑

⑦碑文(表面)  開拓記念碑  農林水産大臣 加藤 六月

⑧碑文(裏面)  開拓記念碑由来

我ラガ 日本武尊伝承ノ地 此処能褒野ニ 開拓ノ業ヲ 起セシハ 戦後ノ混迷未ダ醒メヤラヌ 昭和二十一年如月ノ頃ナリキ 此ノ地ニ集ヒシ者 引揚者 戦災者 及ビ元軍人軍属ノ百名ニシテ 相七携ヘテ開拓ノ実ヲ遂ゲンコトヲ約ス 国敗レテ山河アリ 我ラニ与ヘラレシハ 旧陸軍北伊勢飛行場跡ノ広漠タル原野ナリキ

爾来星霜ヲ重ヌルコト四十年 アルハ灼熱ノ炎天下 アルハ寒風吹キ荒フ月明ノ中 我ラハコノ原野ニ挑ミタリ ソノ辛苦ヤ思フベシ 今ヤ原野ハ化シテ沃土トナリ 我ラハ一戸ノ農家トシテ生計ヲ立ツルニ至レリ 亦 国家緊急開拓事業ノ責務ノ一端ヲ菓シ 全国優秀開拓団ノ榮譽ニ欲スルコトヲ得タリ 以テ自ラ足レリトスルモ 豈ニ神霊ノ加護ヲ想ハザル可ケンヤ

然レドモ 途次ニシテコノ地ニ没セシ者 当初入植者ノ半バニ垂ントス マタ若輩タリシ者モハヤ老境ニ入レリ 漸ク二世ノ時代トハナリヌ 然リ 時ハ移リ世ハ替レド同志ノ血脈ハ縷々トシテ今日ニ及ビ 能褒野農業協同組合ノ支柱トシテ 厳存スルハ偉トスベキナリ

  • ●●●●ビニ各界ノ我ラニ寄セラン●●●ニ感謝ノ意ヲ表スルト共ニ 故人ヲ偲ビ 開拓ノ事跡ヲ子孫後世ニ伝ヘンガタメニ コノ碑ヲ建立ス 

 昭和六十二年一月一七日

⑨現在の状況  JA鈴鹿能褒野店隣に建立、管理されている。

中国・四国地方

鳥取県

鳥取県大山町の香取開拓

鳥取県大山町の香取開拓

 


鳥取県大山町の香取開拓は、大山隠岐国立公園内の、名峰大山の北側中腹にある。

 標高は350~1000㍍、冬には1~4㍍の積雪があり、火山灰土(大山黒土地帯)で酸性が強く、作物が育たない土壌だった。

 この地に46年に入植したのが、香川県出身の元満州開拓団100名だった。香取開拓の名は、香川県と鳥取県の文字からきている。

 この地では過酷な現実が待っていた。香川では経験したことがない、2メートルも雪が積もる冬、フェーン現象で乾いた高温の風が吹きおろし、頻発する山火事など苦しい状況が続いた。

 山麓は松林で、松根堀は大変な仕事だった。東京の三菱重工倉庫に南方戦線に送るはずだった15㌧戦車が何台もあったので、そのうち2台を借り受けた。建設会社に頼んで砲塔を切り、前面に排土盤、抜根装置をつけて改造した。この戦車は燃料を大量に消費するが良く働き、大きな木を倒し、岩をおこして開墾していった。

満州での経験を基に、水田ではなく、畑作畜産営農を推進した。しかし、食料増産の機運の中、家畜の導入がうまく行えず、しばらくは苦しい畑作経営が続く。

 48年に香取開拓農業協同組合が設立し、本格的に開墾が進められた。

62年に開拓営農振興臨時措置法の適用や、66年の第1次構造改善事業の導入などで酪農は順調に伸びてきた。

 66年の入植20周年には、香川県からはるばるやってきた自然石でできた入植碑が建てられた。

 88年には国土庁主催の第3回農村アメニティコンクールで最優秀賞を受賞した。この賞は、農村地域の居住快適性にスポットをあて、「緑豊かな自然環境の保全」「機能性を備えた住みやすさ」「地域特性の活かし方」などを審査基準としており、香取村が農村アメニティ日本一に輝いた。

 現在、酪農家の戸数は減少してきているが、毎年入植記念日に集まり、心地良い村づくりに励んでいる。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2024年1月 鳥取・香取

鳥取県大山町・香取開拓

 

①調査日  2016年5月17

②所在  西伯郡大山町松川原

③地区の沿革  昭和2011月入植

④設置年月日  

⑤設置者  不明

⑥碑名  入植碑

⑦碑文(表面)  昭和2011月入植 香取開拓入植碑

⑧碑文(裏面)  不明

⑨現在の状況  地区内で管理されている。

島根県

島根県奥出雲町・三井野開拓

島根県奥出雲町・三井野開拓

 

 島根県仁多郡(にたぐん)奥(おく)出雲(いずも)町の三(み)井野(いの)開拓は、広島県との県境に接し、東に鳥取県の県境もある。

 全域が比婆道後帝釈国定公園に指定されており、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したという伝説の地「船通山(せんつうざん)」の南西に位置する。

当時の住所は、広島県比婆郡八鉾村であったが、53年に島根県に県境変更された。

戦争末期の4410月、食料難に対応するため、農業報国会島根県支部直営農場がこの地に置かれ、バレイショ種子の採取保護地として島根県農兵隊200人(国民学校初等科第4学年以上の児童、青年学校及び男女中等学校生徒が動員された)で開拓したのが始まり。

この土地は、標高730㍍の高冷地で、火山灰の土壌がバレイショ栽培に適しているとされた。

45年に終戦し、国内は混乱したが、11月には緊急開拓事業実施要領が決定され、事業自体は従前どおり継続された。農業報国会が農事振興会に改組され、開拓の基地農場となった。

47年から近隣(島根・広島・香川など)や満州からの引き揚げ者などが入植してきた。基地農場で訓練した人たちも多く、開拓に役立つこととなった。48年4月に開拓基地農場は三瓶農民修練場へ移転、三井野は純開拓地として入植者を受け入れた。同年10月に戸数30戸で三井野(公式には八(や)川(かわ))開拓農協が発足した。

49年にスキー場を開設した。これはせっかく国鉄木次線が通っているので、三井野原駅を設置するためでもあった。

火山灰特有の酸性土壌のため雑穀は不良で、キャベツ、ダイコン、野菜用バレイショなどの生産が増え、主幹作物として定着していった。

67年、国から夏秋キャベツ産地として指定を受け、生産出荷近代化事業が計画されることになり、八川農協による共販体制に統一された。

78年10月、開拓30周年記念式典が開催され、開拓の碑が建てられた(写真)。

現在は、数戸の農家が高原野菜やトルコギキョウなどの生花を生産している。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年8月 島根・三井野原

島根県奥出雲町・三井野開拓

 

①調査日  20201111

②所在  仁多郡奥出雲町八川

③地区の沿革  吾妻山の北部に

④設置年月日  昭和5310

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  開拓之碑   島根県知事 恒松 制治

⑧碑文(裏面)  三井野原開拓三十年記念 昭和五十三年十月建之

        開拓者28名氏名

⑨現在の状況  稚児ヶ池神社地内で管理されている。 

岡山県

「野原開拓之碑」 岡山県新見市神郷

「野原開拓之碑」

岡山県新見市神郷

岡山県では、1945(昭和20)年から57年にかけて、55の開拓農協が設立された(「岡山県戦後開拓史」78年発行)。

県北西部に位置する新見市は鳥取、広島両県に接し、面積の多くを山林が占めている。人口は約2万7千人。農業はブドウやクリなどが栽培されている。北部の中国山地にある神郷(しんごう)(旧・阿哲(あてつ)郡神郷町)の野原地区は戦後開拓地である。

45年10月から、満州開拓の引揚者、復員者等23戸が入植した。標高510~770㍍で、雑木が繁茂していた。冬は積雪量が多く、北風が強かった。

48年、自興開拓農業協同組合(以下「開拓農協」)を設立。土地は強酸性の痩せ地で、霜害もあり、農業には条件が悪かった。入植者は開墾のかたわら、山仕事、日雇いに出て現金収入を得た。開墾が進み、作付けしても収穫がなく、離農者が続出した。

土壌を改良して種々の作物を栽培したが、収穫量は少なかった。59年に酪農、65年には造林用苗木や美濃早生ダイコンの栽培を取り入れ、営農が安定してきた。

開拓行政の一般行政移行に伴い、開拓農協は71年に解散し、新たに野原部落を結成した。残ったのは15戸だったが、経営規模は大きかった。

開拓地の台地に、松並木と大きな石碑がある。松並木は、県が78年に「郷土記念物」に指定。自然に生えていたアカマツを、入植者が防風林として残し、手入れしてきたもので、開拓の象徴となっている。

石碑は、開拓農協の解散を機に開拓の成功を記念して72年に建立されたもので、碑銘は「野原開拓之碑」。裏面には、碑文と入植者の氏名が刻まれている。

碑文には「不毛ノ原野ニ入植シ苦節二十五年粒々辛苦ノ末ココニ当初ノ目的デアッタ自立農家ノ達成ヲ見ルニ至ッタ」、「自興開拓農業協同組合ハソノ任ヲ終エタノデコレヲ解散シ一般行政ノ下ニ移行スル 今コノ偉業ヲ永ク記念スルタメ同士相計リ開拓碑ヲ建立スル」などと記されている。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2022年9月 岡山・野原

「野原開拓之碑」

 

①調査日  2019年5月28

②所在  新見市神郷高瀬

③地区の沿革  昭和2010月から、満州開拓の引揚者、復員者等23戸が入植した。標高510770米で、雑木が繁茂していた。冬は積雪量が多く、北風が強かった。

④設置年月日  昭和47年6月

⑤設置者  入植者

⑥碑名  入植碑

⑦碑文(表面)  野原開拓之碑 農林大臣 赤城 宗徳 書

⑧碑文(裏面)  野原の開拓は昭和二十一年十月十六日に始まる 不毛の原野に入植し苦節二十五年粒々辛苦の末ここに当初の目的であった自立農家の●成を見るに至った 昭和●十三年九月この事業完遂のために結成した自興開拓農業協同組合はその任を終えたのでこれを解散し一般行政の下に移行する 今この偉業を永く記念するため同士相図り開拓碑を建立する

       昭和四十七年六月

⑨現在の状況  開拓地の防風林「郷土記念物 野原の松並木」内で管理されている。

岡山県

日本原開拓之碑

「日本原開拓之碑」

岡山県勝田郡奈義町・日本原開拓

岡山県北東部の勝田郡奈義町(なぎちょう)は鳥取県と接し、人口は約5500人で、農業、畜産、林業が主な産業。中国山脈の主峰・那(な)岐山(ぎさん)の南麓に位置し、町の南西部には、緩傾斜の日本原(にほんばら)高原が広がっている。日本原には戦前、陸軍の演習場があった。その跡地で戦後開拓事業が行われた。

1946(昭和21)年3月、引揚者、戦災者を主体に88戸が入植した。開拓地の面積は156町歩で、表土は火山灰の黒土だった。台風発生時などには、「広戸風(ひろとかぜ)」と呼ばれる強風が山から吹き下ろす地区で、豪雪地帯でもある。土地・資材の配分、地区別の組編成を行い、開拓を始めた。手作業で開墾に打ち込んだ。

48年、日本原開拓農協を設立。カンショ、バレイショの生産、乳用牛の導入などを推進した。50年、電気が導入された。同年、中四国9県の中から、優良開拓地として、農林大臣賞を受賞した。

その後、酪農のほかに肉用牛や養鶏など、畜産が急速に普及した。

61年から、陸上自衛隊演習場の拡張のために、防衛庁による開拓地の買収交渉が行われた。63年、買収が確定(現・陸上自衛隊日本原駐屯地、同演習場)。翌年、76戸が離農し、県内各地に転出した。新野地区のみ12戸が残留し、15町歩の開拓地を基盤に酪農を主体として定着した。

同町上町川の公民館の敷地内に、開拓記念碑がある。入植者が89年に建立したもので、碑銘は「日本原開拓之碑」。裏面には、碑文と開拓者氏名が刻まれている。碑文には、「祖国復興ノ使命感ト開拓魂ヲ矜持シ、新天地ヲ築ク歓ビニ燃エ、一致団結シテ黒土ノ大地ニ挑ミ、営々辛苦、優秀開拓地トシテ農林大臣賞ヲ受クルコト再度」「奈義町ノ陸上自衛隊誘致ニ伴ヒ三十九年三月、十二戸ヲ残シテ七十六戸ハ、其ノ血ト汗ト涙ノ結晶タル農地等百四十町歩ト訣別シ、再ビ新タナル天地ヲ求メテ離散ノ止ムナキニ至ル」と記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年4月 岡山 日本原

日本原開拓之碑

 

①所在  岡山県勝田郡奈義町上町川

②設置年月日  昭和63年9月18

③設置者  入植者

④碑名  開拓碑

⑤碑文(表面)  日本原開拓之碑 奈義町長 黒田 貞太郎 書

副碑(表面)  賛助者芳名

⑥碑文(裏面)  昭和二十年八月 大戦に敗れし直後の惨担たる国土荒廃と食糧危機に対処すべく復員軍人・戦災者・海外引揚者等二百十六世帯帰農を志して日本原に結集す。占領軍の強制退去命令を受くるも断固屈せざるもの八十八戸二十一年四月県道百五十六町歩の払下げに成功し祖国復興の使命感と開拓魂を矜持し、新天地を築く歓びに燃え、一致団結して黒土の大地に挑み、営々辛苦、優秀開拓地として農林大臣賞を受くること再度。然れども打続く災害と変転する経済情勢は如何ともし難く、加ふるに奈義町の陸上自衛隊誘致決定に伴い三十九年三月 十二戸を残して七十六戸は、其の血と汗と涙の結晶たる農地等百四十町歩と訣別し、再び新たなる天地を求め離散の止むなきに至る。その後星霜更に二十有余を閲し、既に帰幽せる者半ばに達したり我ら日本原開拓の血涙の歴史を忘るる能はず無量の感慨を以て開拓の碑を建て、鎮魂の祈念を捧げ永く其の経緯を伝へんとす。          

昭和六十三年九月十八日          開拓者氏名

⑦現在の状況  日本原開拓記念館地内で管理されている。

岡山県

岡山県真庭市・蒜山開拓

アクセス

岡山県真庭市・蒜山開拓

岡山県北中部 の 真庭市は 05 年、5町4村が合併して誕生 。最北部 で鳥取県と境を接する
蒜山(ひるぜん)地区 (旧・ 八束村 、川上村 の蒜山高原 は 標高500~600㍍、夏は避暑地として観光客で賑わう。 風光明媚 で、 キャンプ場やスキー場 、 レジャー 施設が あるが、 戦前は陸軍の演習場だった 。 戦後 、 緊急開拓 事業 で 切り開かれた。
46(昭和 21 )年 12 月から入植が始まり 、 翌年5月に総勢175名をもって 蒜山 原開拓団が結成された。 48年、蒜山原開拓農協を 設立(後に 蒜山開拓農協 した。
雨量が多い地域で 、屋外作業 は 困難を極めた 。冬は 積雪が多く、厳しい気象条件 だった。
土壌は火山灰 を含む「 黒ボコ 」に覆われ、強酸性。入植者の 前歴は様々で、ほとんどが農業の未経験者であり、鍬一丁の開墾作業は容易 ではなかった。
農業収入が満足に得られぬ歳月が流れた が、52 年 、試作販売した 美濃早生ダイコンが好評を博し、生産を拡大。 59 年、開拓農協による 共販体制が確立した。また、57 年にはジャージー牛による酪農経営が始まった。 次第に頭数を増やし 、国内有数のジャージー牛の産地となった。
現在、ダイコン と ジャージー牛 製品(牛乳・乳 製品)が 蒜山の特産品となっている。
「道の駅 蒜山高原」 近くの八束自然牧場公園内に 、 蒜山拓友会が管理している2基 の石碑がある。 開拓40周年を迎えるにあたり、 蒜山 開拓農協が 2基 とも 85 年に建立したもので 、 翌年 、除幕式が行われた。碑銘は記念碑が 「 蒜山開拓記念碑」 、拓魂碑が 「 拓魂 」。
記念碑 の 裏面には、開拓の沿革と開拓者氏名が刻まれている。碑文の末尾には「記念碑と拓魂碑を建立し亡き友の霊を祀ると共に苦難に徹して立上った我等の開拓精神を後世に伝えんとするものである 」と記されている 。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2月: 岡山県真庭市・蒜山開拓

〇蒜山開拓記念碑
①位 置 岡山県真庭市蒜山富山根 蒜山自然牧場公園内
35.295928, 133.668682

②設置者
蒜山開拓農業協同組合

③設置日 昭和 60 年5月

④碑文表 ①蒜山開拓記念碑 参議院議長 木村睦男書
     ②拓魂 内閣総理大臣 中曽根康弘書

⑤碑文裏 ①昭和21年春政府の緊急開拓政策に応じ敗戦の悲しみの中にも欝勃たる気を秘めこの地に馳せ参じた開拓同士の数175名5月9日厳粛に結団式を挙行した然してそこには言語に絶する苦難の日々が待ち構えて いた酸性の強い黒ボコ蒔いても植えても育たない日々が延々と続き遂に鍬を捨て出稼ぎに行かざるを得なくなった加えて冬季は1米余の積雪この苦難の生活に耐え兼ね山を去る者が続出した然しこの苦難によく耐えた我らは立上る努力を怠らなかった巳に昭和23年には美濃早生大根の栽培に着目し漬物による現金収入の道をひらき27年には生果として市場出荷の道を見つけ栽培面積の拡大に伴い34年には開拓農協共販体制を確立更に地元え栽培が拡大され36年に蒜山拓農協共販体制を確立更に地元え栽培が拡大され36年に蒜山地区出荷連合会を設立遂に蒜山大根の銘柄を日本全土に確立し地区出荷連合会を設立遂に蒜山大根の銘柄を日本全土に確立した35年蒜山開拓振興計画が認定され建設工事も着工を見一方され建設工事も着工を見一方一部の同士は大型酪農により生計を安定するに至った茲に蒜山開拓40周年を迎えるに当たり記念碑と拓魂碑を建立し亡き友の霊を祀ると共に苦難に徹して立上った我等の開拓精神を後世に伝えんとするものである
(氏名100名あまり)
昭和60年10月吉日
初代団長 成友正明撰書

②過ぐる昭和 20 年 8 月太平洋戦争終結後の国内は言語に絶する食糧の拂底に対応した政府の緊急開拓実施要領の国策に順応して食糧増産者の名を冠せられ入植致された私達の先輩 同僚の各位が困苦欠乏に耐えて鋤を揮い遂に病に侵され今日の蒜山原を知る由もなく見果てぬ夢に悔いを残して他界致された諸子の心情を思う秋惻隠の情切々と私達の胸を打ちます茲に蒜山開拓40年の節目を迎え開拓者一同相図り諸子の霊魂の御冥福を祈り拓魂碑を建立して諡を碑庫に奉納し幾久しく皆様の追善を行います本碑建立には岡山県八束村各当局を始めその他各方面より絶大な協賛を得更に本碑面題字は中曽根康弘内閣総理大臣の揮毫快諾を得て皆様の霊位に応えて頂きました希わくば在天の霊魂安らかにお眠り下さい
昭和 60 年 5 月吉日
蒜山開拓農業協同組合

広島県

広島県呉市・野呂山開拓

広島県呉市・野呂山開拓

広島県の南部、呉市に位置する野呂山(のろさん)は標高839メートルの膳棚山から東の弘法寺山までの高原の総称で、瀬戸内海国立公園の区域に指定されている。国民宿舎やキャンプ場、展望台などの施設がある。展望台からは瀬戸内海を眺望することができる。豊田郡安浦町(現・呉市安浦町)の野呂山開拓地には、終戦後の46(昭和21)年から海外引揚者らが入植し、開墾が行われた。
同県の戦前・戦中の産業構造は軍需産業への依存度が高かったため、戦時経済の破滅により地域経済は重大な危機を迎えた。多くの戦災者、離職者、復員軍人らが農山村における就業機会を求めて、開拓者として入植した59年までの開拓地は197地区を数えた。
野呂山開拓の歴史は、江戸時代に遡る。江戸時代後期及び明治初頭に開拓が実施されたが、いずれも長続きしなかった。終戦後に入植した開拓団は、満州(現・中国東北部)からの引揚者ら71戸294名。手作りの丸太小屋でのランプ生活だった。気温が低く、特に冬の寒さは厳しかった。原野の伐採作業から始めた開拓は重労働だった。34年に瀬戸内海国立公園に指定され、開拓予定地は縮小された。
入植者は様々な作物の栽培を試みた。やがて、ダイコンが特産品として高値で取り引きされるようになった。しかし、野呂山の観光開発が進むにつれて、離農者が増えていった。
山頂付近に開拓記念碑が立っている。県下最後の開拓組織となった広島県開拓農協が85年10月に建立したもので、碑銘は「開拓記念碑」。裏面の碑文には、「この碑は昭和二十年八月 大東亜戦争の終結に当たり 県内各地において二千七百戸の開拓者が五千四百町歩の荒地を開墾して 戦後の食糧不足に貢献した業績を後世に伝える為に建立したものである」と刻まれている。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

1月:広島 野呂山

野呂山 開拓記念碑
①所在 広島県呉市安浦町
②設置年月日 昭和60年10月10日
③設置者 広島県開拓農業協同組合
④碑名 開拓碑
⑤碑文(表面) 開拓記念碑
⑥碑文(裏面)
この碑は昭和二十年八月 大東亜戦争の終結にあたり 県内各地において 二千七百戸の開拓者が 五千四百町歩の荒地を開墾して 戦後の食糧不足に貢献した業績を後世に伝える為に建立したものである。
昭和六十年十月十日  広島県開拓農業協同組合建之
⑦現在の状況
標高839米の野呂山の頂上付近の道路脇にあり、管理されている。

徳島県

徳島県美馬市穴吹町

空野開拓碑
徳島県美馬(みま)市は、県北部のほぼ中央に位置する。05年に旧・美馬郡内の4町村が合併して発足。人口は約3万人。南部は山間地で、穴吹町には戦後開拓の集落「空野(あきの)」があった。
空野に至る山道は曲がりくねっており、非常に険しい。行き止まりには、市が管理している「空野放牧場」があり、繁殖和牛が放たれている。標高は約650㍍で、市街地が見渡される。この地域が戦後開拓地であり、道ばたに石碑「空野開拓碑」が建っている。入植の経緯や開拓者名などが記されている。
46(昭和21)年から48年にかけて、中国引揚者、地元縁故者、元・満州開拓青年義勇隊の順に20数戸が入植した。48年、穴吹町開拓農協を結成。入植者は共同生活をし、開墾作業や資材運搬すべて人力によるも、協同の精神で新天地の建設を目指して奮闘した。
51年、待望の空野分教場が開設され、児童17名が就学した。道路開設や電気・給水設備の整備により、ようやく開拓地営農も軌道に乗り、前途に光明が見えてきた。だが、60年代からの高度経済成長期に入ると、次第に離農者や転居者が出始め、71年、同開拓農協は解散の止むなきに至った。現在、廃屋や分教場跡がある。
石碑は97年の建立。碑文の末尾には「町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

10月:徳島・空野

徳島県 美馬市 空野開拓地区 「空野開拓碑」平成9年8月吉日
※国道492号から県道254号へ。穴吹川の南側に位置する山の上にある牧場までの道のりは非常に険しい。

(碑文)
戦後 国の施策に基づき昭和弐壱年拾月中国引揚者竹内豊一氏一家率先入植 続いて地元縁故者相次ぎ 昭和弐参年弐月布川孝明氏率いる元満州開拓青年義勇隊拾名が双葉開拓団と称して入植 穴吹町開拓農業協同組合を結成せり 県は昭和弐四年七月弐日未墾地買収に伴い県営開拓事業として発展せしめたり
入植者天地根元造に起居し 生活物資建設財の運搬及び開墾作業すべて尽力に拠るも 協同の精神旺盛にして 新天地の建設を目指し奮闘せり
昭和弐六年四月待望の空野分教場開設 児童壱七名と算す この頃開拓道路開設 電気導入 簡易給水設備等逐次整備 漸く開拓地営農も軌道に乗り前途に曙光を見るに至れり しかれども昭和参拾年代の高度経済成長の波にさらわれ遂に昭和四六年拾月開拓農協も解散の止むなきに至れり 爾来町において二一世紀の空野を展望し 牧野造成を行い開拓道路を整備しており その再開発また期してまつべきものあり と云うべし
此処に理想郷建設を夢見 開拓に健闘せし同志拓友各位及び関係機関諸賢の芳名を止めて後世に伝える
平成九年八月吉日
関係機関御芳名(元穴吹町長 蔭山潔ほか)、同志拓友御芳名(竹内豊一ほか)

香川県

香川県さぬき市・大串半島

志度開拓神社再建立之碑
香川県の北東部、さぬき市の大串半島は瀬戸内海に大きく突き出た自然豊かな景勝地。自然公園が拡がり、野外音楽広場、キャンプ場などの施設がある。戦後、緊急開拓事業により切り開かれた。
市北部の旧・志度町(しどちょう)と旧・津田町にまたがる開拓地に46(昭和21)年、海外引揚者、復員軍人、戦災者らが入植。その大半は地元縁故者だった。3つの地区が有り、48年、それぞれ開拓農協が発足。その後、合併して志度開拓農協となった。
そのうち、大串地区は半島の山頂部に位置し、急傾斜で季節風が強く、飲用水も不足するという悪条件下だった。解消を図るため、58~66年にかけて、大規模な道路改良、畑の造成、畑地かんがい施設工事が行われた。完成後は水の問題がなくなり、カンキツの栽培が始められた。
半島の中ほどに「開拓神社」(写真㊤)がある。境内右側の「志度開拓神社再建立之碑」(同㊨)には、神社の由来が詳しく記されている。
90年の建立。入植・開墾時について、「大串 上野 末の三地区に五十二戸の帰農を志す人達を迎え 数年の間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った」と刻まれている。
さらに、開墾の成就や五穀豊穣を願い、入植者の心のより所にと天照大神を祭神とする「開拓神社」を建立したこと、40年経過による老朽化と周辺整備の必要性から、現在地に移転・再建したことなどが記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

11月: 香川・志度

香川県 さぬき市  志度開拓地区
「志度開拓神社再建立之碑」 平成2年5月吉日
※大串半島の中程、県道135号沿い。近くにさぬきワイナリーがある。

(碑文)
由来
昭和二十年八月十五日 大東亜戦争はわが国の敗戦によって終結した その結果出征軍人の復員と一般同胞の引揚により人口は急増し 食糧不足は危機に瀕し 経済もまた極度に混乱した 国ではこの対策として緊急食糧増産政策を打出し 開墾可能地を払下げ 各地に於て開拓事業を推進した 本町では大串 上野 末の三地区に五十二戸の帰農を志す人達を迎え 数年の間に五十ヘクタールの開墾地を造成した この間入植者は一致団結 厳しい環境と闘い乍ら血と汗にまみれ鍬を振い 戦後の食糧確保と祖国復興の一翼を担った
その頃 当初の松岡貴次郎らが中心となり 開墾の成就 五穀豊穣を願い 入植者の心の寄り所にと 天照大神を祭神とする「開拓神社」を此の地に建立した 以来四十年 高度成長期を経て時代は大きく変遷した 餓死状態の中にあった食糧事情も豊となり それに呼応して昭和五十年代後半により大串半島の開発が企画され 次々とリゾート施設の建設が進められ今日に至った その陰には先人の逞しい開拓精神と大神の御守護があったことを忘れてはならない こうした経過の中で 曽て入植者が勧請し崇敬して来た開拓神社も 歳月と共に老朽化が進み 加うるに周辺整備の必要性から神社の移転を余儀なくし 再建の運びとなった
この度 大串半島開発企業より多額の御援助を頂き御神威宣揚にふさわしい風格のある神社の造営が出来たことを心から感謝すると共に 改めて 当時を偲び末永く御神徳を給わらんことを祈念し 茲に経緯を記した次第である
平成二年五月吉日
志度開拓神社総代 松岡義高

愛媛県

愛媛県西予市大野ヶ原

愛媛県西予市大野ヶ原開拓

愛媛県と高知県との堺にある四国カルスト()は、日本三大カルストの一つ(他に山口県の秋吉台、福岡県の平尾台)。標高は1100~1400㍍と最も高い。東西約25㌔で、最西端の高原に西予市大野ヶ原開拓地がある。

注:石灰岩が雨水や地下水などで溶けてできた地形。

46(昭和21)年、愛媛開拓増産隊15名が未開の原野に入り、入植を試みたのが始まり。49年、大野ヶ原開拓農協設立。50年に国から開拓地として認可され、同年から63年まで入植が続いた。だが、高冷地で冷害や台風被害などが多く、厳しい自然条件だった。石灰岩が地表に露出し、土壌は強酸性で作物が思うように育たなかった。そのため、多数の離農者が出た。

同農協は、冷涼でも栽培が比較的容易な牧草地とする計画を立て、酪農経営への移行をめざした。59年から乳牛が導入され始めた。以降、徐々ながら草地を基盤とした高原酪農が軌道に乗っていった。

現在、県内でも有数の酪農地帯となっている。素晴らしい景観に加え、牛乳・乳製品の店などもあり、観光客が多く訪れる。

開拓地を見守るように記念碑がある。77年の建立。力強い筆勢で「開拓魂」と刻まれている。下方の碑文には開拓の沿革が記してあり、中頃に「幾多の障害を克服し かつての熊笹の昿野は栄養豊かな牧野と化し 放牧牛の群れが長閑に草を喰む さながら絵の如き 大規模近代農業の基盤確立の偉業を成せり これ一偏に不撓不屈開拓魂の精華」とある。

 

ここの情報を掲載した「開拓情報」

12月: 愛媛・大野ヶ原

愛媛県 西予市 大野ヶ原開拓地区
「開拓魂」 昭和52年10月1日
※四国カルスト山頂に近い開拓地(位置関係は写真のとおり)。戦後、72戸が入植、現在19戸(JAに加入)。この集落には「もみの木」「みるく園」などの店があり、当日も数名の観光客が訪れていた。国道440号から県道36号を通り同地区へ入る。

(碑文)

大野ヶ原開拓は昭和二十一年増産隊の若人が無住の原野に踏み入り開拓を試みしに始る 二十二年実験農家七戸が入山 茅屋で雨露を凌ぎ開墾の鍬を下した 開拓地区計画が樹立され二十五年本格的に事業が始まる 新天地を求め次々に同志集い六十三戸が定住せり 斧音山野にこだまし活気漲る されど秘境の地の開拓の道は遠く険しく 苦難想像を絶する酷寒零下十八度荒れ狂う猛吹雪 乏しい食糧生木で飢えと寒気を凌ぎ 木を倒し根を掘り一鍬一鍬拓き土壌を改良し 稔りの秋を待てど 冷害台風等自然の 猛威は苛酷を極め 収穫皆無の年を重む 生活は極度に困窮し 幾度となく危機にさらされる この試練に屈せず逞しい生命力と英知は高冷地蔬菜栽培で活路を拓き 更に進歩を求め酪農経営に踏み切り 幾多の障害を克服し かつての熊笹の曠野は栄養豊かな牧野と化し 放牧牛の群れが長閑に草を喰む さながら絵の如き 大規模近代農業の基盤確立の偉業を成せり これ一偏に不撓不屈開拓魂の精華であり 大勢の方々の善意と関係機関の篤い指導支援の賜である 

茲に風雪三十年の足蹟を永久に留め後世の大成への指標たらんことを願って此の碑を建立するものである


昭和五十二年十月一日
関係者名(二九名 略)

高知県

高知県南国市・日章開拓地

記念碑と記念広場
高知県南国(なんこく)市の高知空港の前身は、1944(昭和19)年に設置された日本海軍の日章(にっしょう)第一海軍航空基地。空港と南西の水田地帯との間に、日章開拓農協が建立した記念碑などがある。
41年、海軍は香美郡三島村(当時)に航空基地を建設するため、2184反の土地を接収。263戸、1500人余りの住民は急遽、退去を命じられた。翌年、人口が激減した三島村は、同郡の田村、立田村と合併し、日章村(現・南国市の物部川河口部)が発足した。
終戦後、一部の農地が元・住民に返還された。農地に戻すために、住民らは日章開拓農協を設立。組合員は、失った古里の再興のため、汗にまみれ、ひたすら開拓の鍬(くわ)をとった。
しかし、国と県は、859反を高知大学の設立用地、空港用地などに決定。組合員の全土払い下げの悲願は断たれた。さらに83年、滑走路の延長や空港敷地の拡張が行われた。2年後、開拓農協は解散することになった。
85年3月、農協解散に際し建立された記念碑の刻銘は「開拓記念碑」(写真㊤)。碑文には開拓の沿革が記してあり、末尾に「思えば半生 時の流れには抗し難し 古里再び旧に還らぬ いまはただ来る世の礎石となりせめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道とならんことを」と刻まれている。
近くに、日章開拓農協が同年同月に設けた広場があり、石碑「記念広場」が建立されている(写真㊨)。裏面には、唱歌「ふるさと」の歌詩と広場の由来が記されている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

9月:高知・日章開拓地

高知県 南国市 日章開拓地区
「開拓記念碑」 昭和60年3月 日章開拓農業協同組合
※高知空港の南西側に面し、水田地帯との間に位置する。近くに日章開拓記念広場がある。

(碑文)
この地は明治二十二年七月物部久枝下島三村が相寄って誕生し香美郡に属した元の三島の里である 沃土は農を興し黒潮に恵まれて文化の香り高く県下屈指の優良村となって栄えた
秋田川の流れは老若に憩を授け鎮守室岡山は白鳳から明治にわたる数多い津波洪水に村人避難の神域となり命山と呼んでその信を集めた
第二次世界戦争の予兆濃い昭和十六年早々日本海軍はここに航空基地を建設す 総面積二一八四反を接収 二六三戸 一五〇〇余の住民ら急遽退去を命ぜられる 人々互いに別れを惜しみ父祖の霊位を抱き慌しく村を去る 翌十七年日章村発足となる 年を経ずして敗れて戦は終り接収土地の還元を見る 縁りの者らは組合をつくり失った古里再興に祈りをこめ 汗にまみれ苦難を乗り越えて只管開拓の鍬をとる 退去を急がれた寸土を守り続けた者達も一つの思いに力をあわせた
しかるにすでに国県は八五九反を高知大学 空港用地と決定し われら農民の全土払下げへの悲願を断つ 続いて工専が開設され さらには今次空港の再拡張となり開拓の面影は潰え去るに至った 「思えば半生 時の流れには抗し難し 古里再び旧に還らぬ
いまはただ来る世の礎石となりせめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道とならんことを」
茲に組合を閉ざすに当り後世のため碑を建て沿革の大略を誌す
元日章村長 元県会議長 西内四郎 撰書 日章開拓農業協同組合
昭和六十年三月

(記念広場の碑文)
うさぎ追いしかの山 こぶなつりかの川 夢は今もめぐりて わすれかたきふるさと

その昔ここを流れていた貝田川は地域の潤いであり なお懐かしく望郷を呼ぶ
大東亜戦が終った後旧飛行場跡地の開拓を実施してまた日章開拓農協は総てを終り解散するに際し南国市高知県の協賛を得てここに記念の広場を設けた
往年の夢を追いみんなの憩の場として残りの少ない自然を守り育てようではないか
昭和六十年三月之建

九州・沖縄地方

福岡県

福岡県北九州市小倉南区・平尾台

福岡県北九州市小倉南区・平尾台

 

福岡県北九州市小倉南区にある平尾台は、日本三大カルストの一つに数えられる。

 平尾台は標高300~700㍍、わが国有数の石灰岩台地で、裸出カルストの北東部と、被覆カルストの南西部に分けられるが、北東部の裸出カルストの著しい地域は国指定の天然記念物になっている。

台地上には、大小様々な石灰岩柱が並ぶ羊群原と呼ばれている所や、すり鉢状のドリーネも各所にあり、また古(いにしえ)の修験者たちが厳しい修行をしていたという鍾乳洞などがいくつも点在する。

 平尾台開拓は、第二次大戦まで陸軍の演習地だったところに、47年から戦災者や海外からの引き揚げ者など55世帯が入植した。

 観光地としては素晴らしい景観だが、農業には適した場所ではなく、北九州地方の開拓地でも売れ残った場所だった。草原に露出している石灰岩を縫うように開墾していったが、非常に困難であった。

当時の様子を開拓碑には「食料、資金に乏しく夢と現実のはざまの中、生活苦、体力の限界などで下山するものも出た。何とか踏みとどまった人たちの苦労は想像を絶するものであった」と刻まれている。

カルストの特徴の一つに、降った雨は鍾乳洞がある地下へと流れるため、基本的に地上に川が無く、水が乏しかった。ダイコン、ニンジン、ゴボウ、ジャガイモ、キャベツなどのような乾燥に強そうな作物が育てられたが、中でもダイコン、キャベツの2つが主に生産された。寒暖差があるため、辛味がある平尾台大根として人気があった。ドリーネと呼ばれる窪地に流れ込んだ土を利用して、ゴボウが作られたこともあった。

酪農、肉牛経営も見られたが、やはり水が乏しいということもあって長続きせず、今は畜産経営は行われていない。

05年に開拓者37名が当時を回想し、平尾台開拓記念碑を建立した。

 現在も、2戸の農家が主にダイコン、キャベツを生産している。
ここの情報を掲載した「開拓情報」

2024年2月 福岡・平尾台

福岡県北九州市小倉南区・平尾台

 

①調査日  2020年6月24

②所在  北九州市小倉南区平尾台町

③地区の沿革  

④設置年月日  平成17年5月

⑤設置者  開拓者

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  平尾台開拓記念碑

⑧副碑(表面)  昭和二十年八月十五日、日本は長期戦争の爪痕を深く残して終戦を迎える。

混沌とした世情の中で、海外引き揚げ復員など次々と帰国、日本国民は極度の食糧難に陥った。  

そこで政府は、軍用地を払下げ食糧増産にあたった。 ここ平尾台も昭和二十二年より戦災者、海外引き揚げ者など五十五世帯が開拓者として入植した。

食料、資金に乏しく夢と現実のはざまの中 生活苦、体力の限界などで下山するものも出た。何とか踏みとどまった人達の苦労は想像を絶するものであった。

ここに開拓者三十七名、当時を回想し記念して平尾台開拓記念碑を建立するものである。 

開拓者37名氏名 平成十七年五月吉日

⑨現在の状況  地区内で管理されている。

福岡県

「開拓記念碑」 福岡県粕屋町・駕輿丁開拓

「開拓記念碑」

福岡県粕屋町・駕輿丁開拓

福岡県の北西部に位置する糟屋郡粕屋町は、西側を福岡市と接している。福岡市のベットタウンとして発展を続け、人口も約4万8千人と多い。鉄道・バス、高速道路などの交通網が充実しており、商業や流通業が基幹産業となっている。農業は、花き、ブロッコリー栽培などが行われている。

同町は1957(昭和32)年、仲原村と大川村の合併により誕生した。60年代頃までは、石炭採掘と稲作を中心とした農業が盛んだった。

戦後、極度の食糧難となり、政府は全国の開拓可能な原野を収容し、食糧増産を進めた。同町では、駕輿丁(かよいちょう:現在は「駕与丁」)地区で戦後開拓事業が実施された。

町内には、駕与丁池をはじめ、大小のため池がある。駕与丁池の周りには、町のシンボルとなっている駕与丁公園や、遊歩道、粕屋町総合体育館などがあり、その一角で開拓碑が保存、管理されている(写真)。

記念碑の碑銘は「開拓記念碑」。手前は説明板で、駕輿丁開拓史とともに、開拓記念碑建立除幕式(52年)の写真が載っている。

同開拓史によると、47年に駕輿丁開拓農協を結成し、旧・仲原村から16名が選ばれ、25㌶に及ぶ原野の開墾が開始された。山林の切り開きや木の根の掘り起こしを全て人力で行う重労働だった。開墾には成功したものの、開拓地一帯特有の赤土は、作付けを行っても十分な収量は得られなかった。

モモ(桃)の栽培に取り組んだ後、土壌改良を重ねた結果、ブロッコリーの栽培に成功した。町の特産品「粕屋ブロッコリー」の産地として、現在も生産が続けられている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2021年12月 福岡・駕輿丁

福岡県粕屋町・駕輿丁開拓 「開拓記念碑」

 

①調査日  2020年6月25

②所在  糟屋郡粕屋町駕与丁

③地区の沿革  県北西部に位置し、昭和22年に駕輿丁開拓農業協同組合を結成し、旧仲原村から16名が25ヘクタールに及ぶ原野の開墾を開始した。この一帯特有の赤土は十分な収穫を得ることはできず、土壌の研究を重ね、桃の栽培に成功した。

④設置年月日  昭和2710

⑤設置者  不明

⑥碑名  開拓記念碑

⑦碑文(表面)  開拓記念碑 福岡県知事 杉本 勝次 書

⑧碑文(裏面)  5年間の入植、開墾の経過が刻まれているが,経年劣化等で判読が困難である。碑文の後段では 「開拓地四十町歩耕地化と開墾●●●完成を記念」の文字が読み取れる。

⑨現在の状況  地区内の公園で管理されている。

長崎県

長崎県・雲仙開拓(東原地区)

長崎県・雲仙開拓(東原地区)

 

 長崎県雲仙市瑞穂町の雲仙開拓(東原(ひがしばる)地区)は、島原半島の北部で、雲仙岳の北側山腹斜面に位置している。

 標高は250~320㍍、地質は火山灰土でリン酸欠乏土となっている。雲仙岳を背に、有明海を臨む風光明媚な開拓地だ。

 46年から翌47年にかけて、海外からの引き揚げ者を中心に20戸が入植した。

 この東原地区はほぼ雑木林で、トウグワ一本の道具だけで木の根を掘り、開墾していった。雪が降れば布団が白くなるような小屋に住みながら苦闘を重ね、20戸が互いに励まし合い、時には競い合いながらの生活だった。

この土地は火山灰土ながら肥えていて、温暖な気候を生かした麦、バレイショ、サツマイモなど、各種野菜作りは比較的良好だった。

51~58年頃にかけて毎年のように台風などの自然災害が襲ったが、みんなで乗り越えてきた。

 すでに戦前、外地で苦労してきた人たちなので、常に積極的な営農を取り入れ、10年目頃には将来のめどが立ち始めた。

61年以降の振興対策事業を契機として、経営を肉牛、酪農、養豚などの畜産業に転換する農家も出てきた。飼料作物も多くの収穫があり、酪農が栄えていった。また、長崎県開拓農協指導のもと、乳用種去勢牛肥育の開拓牛事業も行われた。

肥沃な土地でダイコン、キャベツ、バレイショなどの畑作や、ミカン、ナシなどの果樹、花木栽培も盛んに行われている。

入植20年目(66年)頃には住居や生活環境も一応整い、生活も安定してきた。また、30周年には「東原霊園」が造られ、この間に物故した父や母、兄弟たちの霊(他家に預けられていた)を弔うことができた。

77年には全体で肥育牛2500頭、乳牛200頭、バレイショや野菜などの畑地約40㌶の専業農家集団となった。

91年には入植45周年を記念し、「開拓之碑」が建てられた(写真)。

 驚くべきことに、現在でもほぼ全戸がこの地区で生活している。お互いに尊重し合いながら、自分たちで切り拓いてきた美しい故郷を守り続けている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年6月 長崎・雲仙

長崎県・雲仙開拓(東原地区)

 

①調査日  2017年1月24

②所在  雲仙市瑞穂町西郷 東原コミュニティーセンター敷地内

③地区の沿革  島原半島北部に位置し、標高250320米。昭和21年から翌22年にかけて20世帯の海外引き揚げ者が入植。この東原は雑木林で、トウグワ一本の道具だけで、木の根を掘り雨が降ればびしょぬれになり、雪が降れば布団の上に積もるような小屋に住みながら苦闘を重ね、20世帯の人が互に励まし合い、競い合いながら、麦のおかゆと、芋だけの食事で10年の生活を続けた。常に積極的な営農を取り入れ、10年目頃から将来のメドもたち始め、20年目ごろには住居も一応整い、安定した生活を得た

④設置年月日  

⑤設置者  

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開拓之碑

昭和二十一年この地に入植す。

        何時の世にも語り伝えよ、

        東原の野山拓きし、父母の若き日

        歴代開拓組合長名 入植者氏名

⑧碑文(裏面)  無し

⑨現在の状況  地域内で管理されている。

熊本県

熊本県山都町(やまとちょう)・朝日(大矢)開拓

熊本県山都町(やまとちょう)・朝日(大矢)開拓

 

熊本県上益城郡(かみましきぐん)清和村(せいわそん)(現山都町(やまとちょう))の朝日開拓は、阿蘇山の南に位置し、標高690~800㍍の高地にある。西側には国指定重要文化財「通潤橋」がある。

 地質は火山灰土で、波状形高原地帯である。地力が低く、スズ竹の繁茂により開墾作業が進まず、県内屈指の不振地区であった。

 47(昭和22)年、熊本県開拓基地農場(開拓者の基幹養成と、開発のための講習所)から入植設営のために数名が現地に入り、翌年10名が入植した。同年、富山県から十数名が入植している。

 49年3月までに入植したのは30名だったが、離農したのが13名にのぼり、定着率は悪かった。しかし、残った人が少ない分、団結は強まっていった。

 当初は、掘っ立て小屋の竹の床に草壁の住居で雨露をしのいだ。水の確保も大変で、小川の水を汲んできたが、雨が降ると濁って使えない。

初年度より朝日開拓農協が設立されたが、当地の開墾は困難を極めた。馬を導入してみたが、土が硬くて思うように耕せなかった。

陸稲、ジャガイモ、サツマイモなどを主食として栽培し、換金作物として菜種、陸稲、また裏作としてソバ、麦類の作付けを行ったが、十分な収穫は得られなかった。

50年に各戸に牛が導入され、農家所得の源をなした。また、65年に養蚕部門を導入し、営農不振からの脱却を目指す。そして72年から地力増進を目的に、開拓牛(乳用種去勢肥育)に取り組むことになる。

72年に地区名を「大矢区」に改名。農協は上益城郡の6単協が合併して「上益城開拓農業協同組合」となった。

現在、では9戸、肥育牛経営(3戸が肥後開拓農協組合員)と、野菜、おもに夏秋野菜(トマト、ピーマン)を栽培している。特にトマトは高冷地野菜として人気がある。

 78年4月28日(現、昭和の日)に開拓30周年記念式典を行い、碑を建てた(写真)。以来、毎年(今はコロナ禍で中断)「開拓まつり」が盛大に開催されており、今後も開拓魂は引き継がれていく。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年5月 熊本・朝日

熊本県山都町(やまとちょう)・朝日(大矢)開拓

 

①調査日  2016年7月28

②所在  上益城郡山都町大字鶴ヶ田

③地区の沿革  上益城郡の最東部、阿蘇山の南に位置し、標高690800米の波状形高原地帯。村有地、民有地275haが解放され、熊本県開拓基地農場(開拓者の基幹養成と開発のための講習所)出身者と県外入植として富山県より入植したが、定着率著しく悪く、広く県内外より入植した。波状高原地帯のため地力悪くスズ竹の繁茂により開墾作業も進展せず、県内屈指の不振地区として諸施策が実施された。

④設置年月日  昭和53年4月

⑤設置者  不明

⑥碑名  入植30周年記念碑

⑦碑文(表面)  拓碑  開拓参拾周年記念  昭和二十三年二月異郷より此の地に住を移し三十年の四季を送る その間 風雪にたえ業を興し相助け励まして部落大矢を成す この偉業をたたえて碑を残し後世に伝える  /  昭和五十三年四月  清和村長 平川 亘撰

⑧碑文(裏面)  記録 区長氏名 個人名

⑨現在の状況  標高700米の山あいを通る道路脇にあり、「記念碑の為の広場」というような印象で、管理されている。

大分県

大分県杵築(きつき)市・三光坊開拓

大分県杵築(きつき)市・三光坊開拓

 

大分県杵築(きつき)市は国東(くにさき)半島南部に位置し、温暖な気候の城下町。

三光坊開拓は市北部の丘陵地にある。初めに入植したのは満州開拓団から愛媛県に戻ってきた10名の開拓者たち。

満州から46年末に引き揚げてきて、愛媛に戻っていたが、48年にまず男だけ10名が入植してきた。全て人力で、一鍬一鍬耕してきた。家も自分たちで建て、翌年家族がやってきて本格的な開拓生活が始まった。

以前より、愛媛ではミカンは金になることが分かっていたが、苗木を買って成木まで4~5年待つという余裕が当初はなく、とにかく少しでも食べていける、すぐ金になる作物を選んできた。しかし、この丘陵地は強酸性土壌で、芋さえもなかなか芽が出ない、ダイコンもまっすぐ伸びないような土地だった。すぐに売れるスイカが唯一の武器だった。

初めのころはスイカや野菜を換金作物として、堆肥を取るために乳牛を飼ったり、グラジオラスなどの花の栽培を手掛けたりしたがそれほどうまくいかず、やはりミカン栽培は目標として常に考えていた。

数年で割り当てられた1haの8割を開墾し、50年頃からミカンの苗木を植え始めた。

当時の方は、「同年代の人が高校に通う道を、牛糞を拾って歩くのは本当に恥ずかしかった。53年に電気がようやくついてラジオを買った時と、57年にミカンが初成りした時の嬉しさだけは忘れられん」と話す。

58年10月に三光坊開拓農協が設立された。同年杵築市が「柑橘(かんきつ)興(こう)市(し)(柑橘で市を興す)」をスローガンに積極的にミカンの振興政策を講じた。

ミカンの先進県である愛媛から技術者を招いて、懸命に取り組み、一躍ミカンの先進地となっていった。

ミカン栽培に適していたこの土地に、愛媛県を始め多くの人々が移住してきた。

68年にミカン価格が暴落して苦しんだが、75年頃からハウスミカンに重点を置いて取り組んだ。

この地はなだらかな丘陵が多く、ハウスを建てやすいこともあり、大きな成功を収めることができた。

写真の記念碑は、75年6月に建立され、ミカンの郷を見守っている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

2023年4月 大分・三光坊

大分県杵築(きつき)市・三光坊開拓

 

①調査日  2018年9月10

②所在  杵築市大内

③地区の沿革  国東半島南部、愛媛出身の満洲引揚者が丘陵地帯に入植。みかん栽培で成功。

④設置年月日  昭和50年6月

⑤設置者  入植者

⑥碑名  開拓碑

⑦碑文(表面)  開拓  杵築市長 八坂 善一郎

副碑(表面)  開拓史

      昭和31年   国県共同で地区買収実施 14●町歩

     昭和32年4月 入植配分 同三光坊開拓●結成

     昭和33年5月 農林省モデル開拓地●定

     昭和3312月 農地開発機械公団で機械開墾 1,214

     昭和34年4月 住宅及び開拓道路完成  956万●262

     昭和34年7月 三光坊区誕生 電●道● 68

     昭和3710月 飲用水施設完成 430

     昭和4011月 入植地売渡登記完了

     昭和4111月 各戸電話導入

     昭和47年5月 三光坊開拓農協は県開拓農協と合併

     昭和47年8月 幹線道路アスファルト舗装完了 3482

     昭和48年6月 支線道路コンクリ●●完了

     昭和50年6月 開拓碑建立

⑧碑文(裏面)   無し  副碑裏 入植者名(約38名)

⑨現在の状況  地区公民館地内で管理されている。

大分県

大分県別府市・古賀原開拓地

記念碑が3基、水道碑も
大分県の戦後開拓地は県内全域に分布しており、1945(昭和20)年から68年までに4844戸の入植があった。県東部のほぼ中央に位置する別府市内成・古賀原(こがのはる)地区(旧・古賀原村)には40戸が入植。その開拓の歴史は、水を求めての厳しい戦いだった。
47年3月に第1陣35戸が入植、後に5戸追加入植。標高600㍍位の 高い丘陵地だった。開拓者はクワやツルハシで開墾を始め、翌年、古賀原開拓農協を設立。焼き畑農業から始まり、野菜などを作って別府の町に売りに行った。
湧き水や池もない原野で、水不足が深刻だった。入植者は沢水を見つけて飲み水に供する生活が長く続いた。61年に簡易水道が完成したものの、日照りで水が涸れることが多かった。
84年に現在の水道施設が完成し、ようやく水不足から解放された。現在、ダイコン、ハクサイ、キュウリなどの野菜や茶などが生産されている。
古賀原公民館の敷地内に、記念碑が並んで3基ある。古賀原自治会が77年、97年、15年に建立したもので、それぞれの碑銘は「開拓三十年記念」「古賀原誕生五十周年記念碑」「古賀原誕生七十周年記念碑」。
近くに「飲雑用水施設竣工記念碑」もある。碑文には「飲用水の不足で当初は谷間の素掘井戸より泥水を担ぎ上げて使用し それも底をつくと遠くの道なき谷間を水を探し求め歩き焦燥の日々が続く」と苦労が刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

6月大分・古賀原

古賀原開拓記念碑
(30周年、50周年、70周年及び飲雑用水施設竣工記念碑)
①位 置 大分県別府市内成古賀原
②設置者
③設置日 30周年  昭和52年○月  古賀原自治会
     50周年  平成9年10月  古賀原自治会
     70周年  平成29年11月  古賀原自治会
     飲雑用水  昭和59年10月 別府市・古賀原水道組合
④碑文表 30周年  開拓30周年記念
     50周年  古賀原誕生五十周年記念碑
     70周年  古賀原誕生七十周年記念碑
     飲雑用水  県営古賀原地区
          飲雑用水施設竣工記念碑
          大分県農政部長 中島恭司
⑤碑文裏 30周年  昭和五十二年〇月  古賀原自治会
     50周年  平成九年十月吉日  古賀原自治会
     70周年  平成二十九年十一月吉日  古賀原自治会
     飲雑用水
      威風
終戦後総ての物資欠乏に因って食糧増産を目的として開拓制度が出来その恩恵に預かりてこの地に入植せるも飲用水の不足で当初は谷間の素掘井戸より泥水を担ぎ上げて使用しそれも底をつくと遠くの道なき谷間を水を探し求め歩き焦燥の日々が続く 後年簡易水道の設置ありたるも水源の湧出量が尠なく始終水不足に悩まされ現世に於いてこの様に水に事欠く生活の惨めさを嘆く声その極みに達したその秋にあたり地区民一丸の願望が叶い国県市各々関係の御温情溢れる格別の御詮議に因って汲めどもつきぬ地底の清水が渾渾と湧き出て御温情の水が各戸に廻るようになった時の感激は何物にも代え難く筆舌に尽くし得ずこの歓喜この御高思に対する感謝は肝に銘じ永久に忘れる事なく後世に語り継がなければならない さらにまた古賀原農業の振興発展を祈願しこの碑を建てる
昭和五十九年十月吉日
別府市長 ほか氏名
事業概要等
⑥写真 30周年 50周年 70周年
⑦当該地区の沿革等
⑧記念碑の現在の立地状況
公民館敷地内に設置され、管理されている。
⑨その他、当該記念碑関連記事

鹿児島

鹿児島県種子島南種子町 長谷開拓之碑

長谷開拓之碑
鹿児島県種子島は鹿児島市から南へ約115㌔に位置し、面積445平方㌔、人口は約3万人。種子島宇宙センターなど宇宙関連施設がある。農業が盛んで、米、サトウキビ、茶などが栽培されている。南部のほぼ中央で、中種子町と南種子町にまたがる長谷(はせ)地区には、南洋群島を主とした海外引揚者らが入植した。
標高200㍍前後で542㌶の広い台地。火山灰地に茅(カヤ)が群生し、強酸性で作物栽培には適さない荒野だった。1946(昭和21)年、パラオ諸島からの引揚者を第一陣に、サイパン、テニアン、その他内外各地から172戸が入植した。
入植当時の第一の苦労は食糧難で、開拓の合間をみては、その日その日の食を得るため、近所の農家に労力を提供した。また、ツワブキ、ワラビなどの山菜は重要な食材となった。
47年に長谷小学校、48年には長谷開拓農協が南種子町に設立された。組合員が協同して開拓に励み、多くの苦難を乗り越えた。所期の目的を達成した同農協は74年に解散。現在、サトウキビやサツマイモなどが豊かに実る地区となっている。
長谷小学校前の道路沿いに記念碑がある。長谷地区民一同と町が96(平成8)年に建立したもので、刻銘は「長谷開拓之碑」。
碑銘板には「茅葺き掘立小屋に食糧不足という厳しい状況下、すべて人力による艱難辛苦の開墾作業であった」「長谷地区全域にかつてなかった開拓者精神が満ち、新しい村づくりが進んだ。一九六二年(昭和三七年)開拓パイロット事業による入植も加わり長谷の荒野は豊かな郷に変貌した」と刻まれている。

ここの情報を掲載した「開拓情報」

8月:鹿児島・種子島

長谷開拓記念碑
①位 置 南種子町長谷 長谷小学校(30.447450, 130.908594)
②設置者 入植者・南種子町
③設置日 平成8年6月
④碑文表 長谷開拓記念碑
⑤副 碑 碑文
火山灰土に茅が群生する長谷の台地は耕作に適さず、古くから牧野として利用され、人々が定住すること希であった。明治時代以降いくばくかの人々が定着した。第二次世界大戦末期は本土防衛に備えて陸海軍の駐屯地となった。一九四五年(昭和二〇年)終戦の直後、外地引揚者等が新天地を求めてこの長谷地区に多数入植した。茅葺き掘立て小屋に食糧不足という厳しい状況下、すべて人力による艱難辛苦の開墾作業であった。一九四七年(昭和二二年)長谷小学校創立。長谷地区全域にかってなかった開拓者精神が満ち、新しい村づくりが進んだ。一九六二年(昭和三七年)開拓パイロット事業による入植も加わり長谷の荒野は豊かな郷に変貌した。現在は本町の副都心として発展し続けている。終戦時の画期的入植から五十年、ここに長谷地区の開拓の歴史を偲びこの碑を建立する。
平成八年六月
     長谷地区民一同
     南種子町
⑥記念碑の現在の立地状況
小学校前の広場近くに立地し管理されている。

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